「過去と他人は変えられない。しかし、いまここから始まる未来と自分は変えられる」
ということばがあります。
これまでの人生経験を通じて、確かに、「人は変わらないことはない」、「人は良い方に変わる場合も悪い方に変わる場合もある」と実感します。
ただ、
・今の時代、身内でもなければ、真の躾はできない
・躾は、素直な若いうちでないと難しい
・大人になったら、躾するのは難しい
と感じています。
つまり、社会人になると、上司、仕事上の先輩、コンサルタント、研修会講師、セミナー講師・・・といった「指導的立場」に多くの人がなります。
この立場になると、「被指導対象者を育成すること」が、暗黙あるいは契約問わず当然、求められています。
けれども、よっぽど、本人が「私を鍛えてください」、「ビシビシ指摘してください」、「躾レベルのことから指導してください」との申し出がない限り、「指導的立場側ができること」は、「気づかせること」や「気づきのきっかけづくり」しかできないな、と感じます。
から
要は、
・教育をどんなに熱心にしても、彼らを変える力は教育自体にはない
・教育の時に教育対象者の上司から「ガツンと指導してください」言われるが、基本無理
・○○ができるようになりたい、と思っている人以外に何を言っても効果は薄い
のです。
少し話題はズレますが、私は、仕事柄、組織の内部監査や第三者監査をする機会が多いです。
その際に、監査基準または技術的、あるいはコンプライアンス上の問題点については、指摘された被監査側は、「しぶしぶなのか」、「めっちゃ納得」なのかは別にして、指摘を納得して捉えます。
けれども、
・そのビジネスにおける方法論に関する指摘
・ビジネスマナー的な指摘
・ものの見方考え方的なコメント
については、被監査側に「ためになるならないは別にして、なんでも監査側の指摘やコメントを吸収してやるぞ」という気持ちがない人に対しては、ほぼ「無力」です。
監査側が「上」ではないので、「上から目線」はもっての他ですが、監査する側の気持ちとしては、「せっかく仕事を通じて監査する機会があったんだし、監査基準や技術的、コンプライアンス的な指摘はなくとも、“こうした方がいいのでは”的なコメントはしてあげたい」と多くの監査員が思っています。
しかし、基本、「少しでも変わりたいから、言われたことの全てを受け入れるわけではないですが、とにかく言ってください」という人を除き、極論すれば「何を言っても無駄」でしょう。
教育の話に戻りますが、
・○○を学びたい、人にとっては、教育は効果がある
・とりあえず教育を受講させられた人には、「気づき」や「そのきっかけ」ができればと割り切る
・教育対象者の上司など水平展開したい立場の人に向けて情報発信する
という姿勢でないと、単なるお節介だしおじさんだし、そもそも、いくら言ってもむなしいだけ、という結果に終わるでしょう。
実際、現実問題として、「人格や仕事のスタイルが確立してしまった大人」に対しては、口では「勉強になりました」と言っていただいても、まぁ、本人が相当その気でないと「講師やコンサルタントとしての役割を果たしましたよ」というためだけの情報発信(教育、指摘、コメントなど)になってしまうのは(悲しいですが)否めません。
(※ 自分を変える“気づき”ロジカル・シンキングのススメ メルマガ667号より)
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