政治家の記者会見や国会答弁はもちろん、組織不祥事等における謝罪会見や釈明会見においても、最近は、
「仮定の質問には答えられません」
というセリフが「常套句」と化している気がします。
不思議なことに、この常套句を発言者に、先に言われると、たいていの質問者は、食い下がり、質問を止めてしまいます。
いち視聴者としては、「もっと記者さん、突っ込んでくださいよ」と苦々しく感じることが多々あります。
このように、「仮定の質問には答えられません」という発言者の「逃げ口上?!」が横行するようになったのは、マスメディアのせいでもあるでしょう。
きっかけがいつなのかは、よくわかりませんが、
「記者が提案した仮定の話なのに、まるで、政治家が言い出しっぺのように記事を書かれてしまう」
可能性があるからでしょう。
しかし、「仮定の質問をすること」自体は、おかしなことではありません。
また、答えられない、あるいは、答えないことの正当性は、全くありませし、論理的なおかしさもなく、仮定の話は回答不能なわけでもないでしょう。
この「仮定の質問には答えられない」に対するもやもやは何かと考えると、「見解を聞きたいことに対するフラストレーション」だと思います。
つまり、私たちは、
「○○の事実がありましたから、事実を説明してください」という「事実関係」
と
「△△であったとしたら、どうされますか、ご意見を伺いたい」という「見解関係」
を知りたいわけです。
要は、「事実の詳細」と「もうこうだったらどのように考えていますか?」という両面についてお話しいただくことが「説明責任」なのです。
だから、「事実のみ」しか説明いただけないと、この人は、こういう場合はどう考えているのだろう、を知りたいのですが、それがわからないと「モヤモヤ感」が残るのだと思います。
法廷もののテレビドラマで(※法律用語的に誤った言葉遣いをしていたらすみません)、反対尋問の際に、弁護側や検察側が「それは推論に基づくものであります」と裁判官に主張して、質問を却下させるシーンがあります。
その際のセリフとして、裁判官は、「質問の趣旨を明確にして質問してください」と注意しています。
これは、裁判におけるルールとして「意見や推測の陳述を求める質問を禁止する原則」があるからです。
ただ、法廷以外では「見解をお聞きする」のは当然だし、前述したように「説明責任のひとつ」であることに間違いはないし、インタビューや議論のルールとしても、おかしなことではありません。
私の専門の世界での話で恐縮ですが、仕事の仕組み(マネジメントシステム)の適切性、健全性を監査する世界では「決められたルールに対する事例の確認」はもちろんですが、「まだ発生していないことが起きた場合の手順や考え方をお聞きする」のは常識です。
なぜ「仮定の話を聞くことが常識なのか」といえば、それを確認しないことには「この組織のマネジメントシステムが、発生確率がある程度あることに対して、本当に機能するか否か」の判断がつかないからです。
「日常的に起こること」について手順を決め、確立していることを確認するのは当然ですが、「もしこうだったら・・・」について、確認しなければ、「仕組みの信頼性を確保する」ことはできないからです。
政治家の世界は、おそらく、「切り取って報道されたら大変なことになる」との心理が働くのかもしれません。
しかし、一般的な説明責任には、「事実と見解」の二面に回答しなければ成立しない、ということを理解しておくことが大事です。
(※ 自分を変える“気づき”ロジカル・シンキングのススメ メルマガ637号より)
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