わたしは、結構、言葉の意味や慣用句を間違って使ってしまっている。
例えば、「にやける」は、「薄笑いを浮かべる」は間違っていて「なよなよする」だし、「失笑する」は「笑いも出ないくらいあきれる」はバツで「こられきれず吹きだして笑う」が正解だが、わたしは、知らず知らずのうちに間違った意味の方で話をしたり、文章を書いたりしてしまっている。
その他にも、
◇うがった見方をする
→疑ってかかる ×
→物事の本質を捉える ○
◇割愛する
→不要なものを切り捨てる ×
→惜しいというものを手放す ○
◇あることをしてみようと気になる
→食指をそそられる ×
→食指が動く ○
などがある。
ただ、わたしは、「言葉の誤った使用」を知っていて、「実際のところ、間違って理解している人が多く、その方が意図が逆に伝わりやすいよな」と思うとき、敢えてそのまま使っていることも、実は結構ある。
例えば、「あわや」は「危険がその身に及ぶ寸前」、つまり「あやうく」の意味で「あわや車と正面衝突するところだった」というように「悪いことが起こりそう」なときに使う。
つまり、「いいこと」たとえば「あわや合格するところだった」とは使わないが、「びっくりした(驚いた)」という意味で理解している人も実際は多いので、間違っていることがわかっていても使ったりする。
以前、言語学者の金田一秀穂先生が、テレビで「ことばは時代とともに使い方が変わるもの」と、「本来は間違った使い方でも誤った意味での理解する人が大多数を占めるようになればそれも時代の流れ」的なことをおっしゃっていて、「そういう考えもあるよな、正しい使い方をしても、相手に伝わらないんじゃ意味ないし」と共感し、「間違っていても、まっ、いっか」と柔軟に言葉を使うようになった。
ただ、個人的に、「誤った言葉の使い方」で、違和感を特に持つのが「酷似」である。
『酷似』を辞書で引くと、「非常によく似ていること、そっくりなこと」とある。
しかし、「酷似」は、単に「似ている」ではなく、「悪い意味で似ている」場合、要は「パクリ」や「以前にあった悪い兆候」に使う言葉である。
2015年2月12日付のネットのニュースで、アメリカメディアがプロゴルファーの松山英樹選手について「タイガーウッズの後継者のひとりとして論評している」という記事の中で「(松山選手は)優れたショット力でタイトルを重ねた若かりし頃のウッズと酷似している」と書かれていたが、「若いころのタイガーに松山選手が似ていることは。いいこと」だから、明らかに、ここでの「酷似」の使用は誤りで「類似」などの表現で良かったんじゃないか、と思った。
でも「酷似」も「悪い意味で似ている場合に使う言葉」と、理解していない人が多いハズだから、『ぜんぜんOK』(この「ぜんぜん」の使い方も間違いですね)かな(笑)
(※ 自分を変える“気づき”ロジカル・シンキングのススメ メルマガ424号より)
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