個人資格であれば、資格付与機関、会社や事業者の認証制度であれば、認証登録を公表する機関が、合格者や審査登録された組織を外部に公表する仕組みに世の中はなっている。
小学校から高校までの通知表も、評価された本人の「自己評価」とは裏腹に、担当教師が、テストの点数や授業態度から評価ランクを決め、所見も記載する。
たとえば、担当教師が「この子は、寡黙で目立たない生徒で、周りには、何を考えているのかわからない、と思われている面もあるが、実際は、大変努力家で、思いやりのある子である」と評価したする。
本人はこの所見に対して、原則的には反論できるわけではないし、評価自体は担当教師が一方的に判断しているものである。
つまり、資格でも、認証制度でも、学校の通知表でも、実力を評価し、公表するのは、評価者である。
ただ、例えば、マネジメントシステム審査における「審査登録制度(認証制度)」では、「評価される側のアピール、つまり説明責任」も重要である。
よく審査員仲間で議論していて、「噛み合わない議論」がある。
それは、まさに、上記で述べた「受審組織の審査における説明責任」である。
意見が分かれるのが、
A)結果としてできていればOK
B)結果だけでなく、なぜそうなったかを説明できてOK
ということだ。
「A」を主張する人は、受審者が「できていること、やっていること」と「それを第三者(審査員)にうまく説明すること」は別物であり、できていること、できていないことを評価するのが審査員の役割であり、受審者に明確な説明をさせる必要は特段必要ない、とする主張である。
一方、「B」を主張する人は、「結果としてできていた」は、例えばひな型の帳票や規定されたマニュアルに沿って実行しただけで「たまたまそうなった」だけである可能性がある。
したがって、「なぜ、そのようになったのか、その経緯を受審者にインタビューして確認しなければ、再現性がない」のだから、受審者が説明責任を有するのは当然である、とする主張である。
私は、当然、「B」の意見である。
その理由は、
◇マネジメントシステム審査で評価されるのは、結果の必然性などその仕組みの有効性である
◇仕組みの有効性では、結果の良し悪し自体が評価対象ではなく、その結果を仕組みの改善にどのようにつなげたかである
◇審査結果は、一方的な評価ではなく、受審者の合意を取り付けるものである
からだ。
したがって、「受審者が第三者に、極めてわかりやすく、流暢に説明することは求めてはいないが、なぜそのように考えて仕事を実行したのか、それは何に基づいていたのか、などについて、説明の仕方は下手でもいいからは、第三者に主張する必要がある」と思うのだ。
最近では、国内に認証機関が乱立し、受審者が、認証機関を択ぶ立場になった。
これは、ある意味、いいことではある。
しかし、「認証機関に審査登録されれば、その組織の説明責任能力もある程度評価されたという証である」と世間や発注者が、認証機関を評価するようにならなければ、「発注者や潜在的顧客から組織がより信頼、安心される」制度にはならず、社会的コストが結果的に増える「ダメ制度」であろう。
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