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大阪府立和泉高校の卒業式で、学校側が君が代斉唱の際に教職員の口元を見て歌っているかどうか監視していたことが話題になっている。

ご存知の方も多いと思うが、大阪府では2011年に「君が代の起立斉唱を義務付ける大阪府の条例」が制定され、大阪府教育委員会は、20121月に、全教職員約13000人に起立斉唱を求める職務命令を出したのだ。

そして、大阪府議会では「同じ職務命令に3回違反すれば分限免職」とする教育基本条例修正案が提案されている。

冒頭の「卒業式における教職員の口元監視」であるが、弁護士出身で民間からの公募で校長に就任した和泉高校の中原徹校長(41)は、

(以下、中原校長の会見でのコメントより引用)

『教職員の長年の”因習”は絶対に是正する必要があります。生意気なことを言えばです。この因習を是正するために、条例ができたのだと考えています。それを執行する教育委員会が、職務命令を出し、かつ、「斉唱」の確認方法についても指示を出しながら、肝心なところで「ちょっとやり過ぎだ」と梯子を外すようなことを言うのであれば、現場の人間としては「やりようがない」というのが偽らざるところです』

(引用ここまで)

と「教育委員会が教職員に対して職務命令を出し、その命令を順守しているか否かの確認方法まで指示しているのに“やり過ぎだ”という批判されるいわれはない」と述べている。

一方、大阪府立高等学校教職員組合の志摩毅執行委員長は、記者会見で、「常軌を逸している。あってはならない人権侵害」と批判したという。

また、大阪府立高等学校教職員組合は、卒業式で国歌斉唱 時に起立斉唱しなかった教諭17人が戒告処分を受けたことについて、「憲法で保障された思想・良心の自由を侵す」として、処分の撤回を求める要請書を教育委員会の中西正人教育長に提出したとメディアは報じている。

つまり、教職員組合は、大阪府条例で「君が代の起立斉唱」が義務付けられているとしても、「国歌を歌うかどうかは内心に最も深く関わることで、歌わないことを理由にした処分があってはならない」という考えなのだ。

さて、この問題、私たちは、どのように捉えるべきであろうか?

「企業のマネジメント」に照らし合わせると、

◇社内規則が正式に制定されている

◇経営トップから「社内規定を順守すること」という職務命令が全社員に出されている

◇社内規則が実行されているか否かをチェックする方法が規定されている

◇社内規則を守らない社員がいたら、その社員に対する罰則規定も設けられている

という状況である。

この状況について、「企業」に例えれば「部門長(管理職)である和泉高校の中原校長が、国歌斉唱時の教職員の口元をチェックしていたこと」は至極当然である。

むしろ、企業経営でいえば、中原校長は、教育委員会(経営トップ)の職務命令とそのチェック指示に対して「きわめて忠実に職務を遂行した管理職」と言えるだろう。

話題を今回の「大阪の府立高校」に戻すと、大阪府教育委員会の教育方針が、

◇「高校の卒業式」は「教育の場」のひとつである

◇卒業式での国旗掲揚と国歌斉唱をするのは「あたり前」のものである

という考えであれば、

「生徒に対して“教育者”という立場である教職員が“思想・良心の自由”」を理由に「歌わない」という行動は、「教育方針を達成する」ことにおいて生徒にしめしがつかない。

したがって、従わなかった教職員が「職務命令違反」として注意や戒告などの処罰対象になるのは当然であろう。

ただ、個人的には、

◇「卒業式」って誰のためのもの?

◇「学校教育」って世の中には、いろいろな考えがあることを教える場じゃないの?

という気もしている。

これは、全くの私見であるが、「卒業式」は、「学校行事」ではあるが、「卒業生と父兄のためのもの」と私は思う。

つまり、

◇生徒が艱難辛苦を乗り越えて全課程を修了したことを称える場

◇その生徒を家庭で支えてきた父兄への感謝と成長した姿を見せる場

と考えている。

したがって、教職員は、卒業式においては「脇役」である。

教職員が「主役」となる「教職員の労をねぎらい感謝される場」は、卒業式後に生徒や父兄が自発的に企画する「謝恩会」である。

だから、卒業式において教職員主導で「仰げば尊し」(恩師を称える歌)を歌うプログラムを計画したり、生徒や父兄が自発的に企画しないで強制的に「必須行事」として開催される「謝恩会」があるとしたら、それはナンセンスだと思う。

また「教育」とは、社会や歴史の授業が代表的であるが、「いろいろな見方がある」ことを教える場であると思う。

青臭い話をすれば、あくまでも「何が正しいことなのか」「どのように一人ひとりが考えるべきことなのか」を生徒自身に判断させ、そういった力を身に付けさせることが「学校教育」なんじゃないのだろうか、と思う。

誤解のないように言えば、私は「卒業式での国歌の起立斉唱」に反対していないし、むしろ「条例や職務命令でしばるべきもの」ではなく「あたり前」のことと思う。

また、現状、「国歌の起立斉唱」が府条例と教育委員会の方針であれば、教職員はしたがうべきだ。

ただ、「卒業式は誰のもの」「学校教育とはどのようなもの」という“そもそも論”で考えた場合、卒業式という場が「教職員が職務命令に従っているか否かを監視する場」と化して「魔女狩的な殺伐とした窮屈な場」にしてしまうのは、なんだか悲しいことだよな、と思う。

(※ 自分を変える“気づき”ロジカル・シンキングのススメ メルマガ272号より)


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