2002年4月に脳内出血で倒れて入院し、2008年8月2日に肺炎で亡くなった漫画家の赤塚不二夫さん(享年72歳)の通夜が8月6日に東京都中野区の宝仙寺で営まれた。
8月4日には赤塚さんを「恩人」と慕うタレントのタモリさんが、本名の森田一義名義でマスコミ各社に以下のような手記を寄せた。

(手記引用ここから)
私の恩人でもある赤塚不二夫氏が亡くなりました。赤塚先生の作品はそれまでになかったもので、そこに登場するキャラクターとともに我々の世代に強烈な影響を及ぼしました。
私がこの世界に入ろうとした時に、突然私の前に現れて、デビューのきっかけをつくり、その後の物心両面での援助は肉親以上のものでした。
あれから32年が過ぎました。色々な出来事、その場面が頭に浮かんでいます。ここに改めて感謝し、ご冥福を祈ります。先生ありがとうございました。
(引用ここまで)

報道によると、赤塚さんは、
・1975年頃、歌舞伎町の飲食店「ジャックの豆の木」でジャズピアニストの山下洋輔氏を介して珍芸を披露
・「天才の出現!」と言わしめ「福岡に帰してはいけない」と目白の家賃17万で4LDKのマンションに住まわせる
・月20万の小遣いを与え、ベンツにも乗り放題にさせる
・テレビ各局や黒柳徹子さんに売り込む
などのバックアップをタモリさんにした。
当時、赤塚さんは「独特のバランス感覚とセンスは誰にも真似できない」とタモリさんを評したそうだ。

この頃のことは、私もよく覚えている。
黒柳徹子さんの番組や黒柳さんと親交の深い永六輔さんが司会を務めるテレビ番組にゲストとしてアイパッチをしたタモリさんがよく呼ばれ、宴会芸の延長のような密室芸(例:イグアナやハエを形態模写、四ヶ国語麻雀)を数多く見た。
当時は、そのような芸風のタレントはおらず、子供心にも大きな衝撃だった。
また、山下洋輔さんと親交の深かった作家の筒井康隆さんのエッセイ作品にもよくタモリさんの話題やエピソードが描かれていた。

タモリさんが手記で「肉親以上の援助」と振り返り、最大限の謝意を表するのは本当によくわかる。
「今の自分を作ってくれるきっかけとなった人」が赤塚さんだったからだ。
しかし、その出会いの本当の源は「人が作ったものではなく、タモリさん自身が作った」のである。
つまり、赤塚さんに紹介した山下さんに「発掘」されるきっかけは、山下さんらが福岡での公演後にホテルの一室で乱痴気騒ぎをしているところに、全く面識のないタモリさんが(非礼にも関わらず)乱入して、虚無僧ごっこをしていたごみ箱を取り上げ踊りだした。
その衝撃が山下さんは忘れられず「いったい今のやつは誰だ」と福岡のジャズバーを片っ端から探し出されることとなったのだ。

私の友人らに、シンガー、ボーカリスト、女優の卵の方が何人かいるが、彼らから、彼らの友人で今や著名になったタレントやアーティストのブレイクのきっかけを聞いていると才能(類まれな能力、ひきつける何か)があることはもちろんあるが、共通して言えることは「チャンスは自分から呼び込んでいる」ということである。
つまり、傍から見ると、「突然見出されてデビューしたラッキーな人」に映るが、そのチャンスは実は自分が作っている。
要は「チャンスは自分で作るもの」なのだ。

つまり、ブレイクしている人の行動には、
・チャンスは自分で作るもの
・他人を引き付け、バックアップしてくれる何かがある
・きっかけとなった恩義は一生忘れない
・自分もその恩義を次の誰かに返していく

という共通点があると思う。

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