この問題の背景には、日本が大学全入時代を迎え
1)学位が国際的な通用性を失う懸念が強まっている
2)『出口管理』の緩さに対して産業界の不信感がある
という危機感があるのだろう。
社会に出て、大学卒業という「学士の価値」を私が相手と話していて感じるのは、「この人、一般教養があるなぁ」と感じるときだ。
例えば、何人かが参加している仕事の食事の席などで歴史の話や文学の話が出た時に、教養のある人は、その話題に関する小話を挟むことができるが、教養がないと「ぽかーん」としてします。
うまく、会話の流れに合わせられる術があれば、誤魔化すことはできるが、最近は結構平気で「その話題、私わかりません」と当然至極のような態度を取る人がいるから、そういう話題を振った方が悪いような錯覚に陥ることもある。
テレビ番組でも最近は一般教養を問うようなクイズ番組が多いが、大学を卒業しているタレントはやはり強い。
この差は、「高校で大学に入学するための勉強をしたかどうかの差」だと思う。
高校生の段階で「進学と言う選択肢があるかないか」でまともな勉強をした経験があるか否かが概ね決まるから、この経験の差が「教養」になって現れるのだと思う。
中教審の答申案によると、
1)面接などを重視して合否を決めるAO入試や推薦入試の際にも学力を把握する
2)学部で身につけるべき能力「学士力」を指針として示す
ことを渡海紀三朗文部科学相に答申する予定だそうである。
この考えには基本的には賛成なのだが、上記1)を担保するためには、
「高校で履修が必要な全課目について、車の運転免許試験レベルの、一定の点数を取らねば大学入試受験資格が与えられない」という条件を課せばいいと思う。
また、大学の先生と話していると、AO入試や推薦入試の目的を、「個性の重視」とか「受験課目だけでは計れない優秀な人材の選抜」と言ったところで、現実には、「入学定員を確保したい大学の青田買い的囲い込み」になっているし、「一般受験で大学に入学してくる学生が減少してから極端に学力が低下した」と言うことをよく耳にする。
つまり「受験のための勉強」というと誤解を招きそうであるが、前記したように「受験のための勉強を経験するか否か」が大学の質を担保する入口管理に重要なのである。
だから、AO入試や推薦入試の本来の目的を考えれば、
・一般入試の前にAO入試や推薦入試を行なわない
・大学入試には車の運転免許レベルの履修全課目の「大学入試受験資格テスト」を課す
という「入口対策」をすればいいのだと思う。
中教審答申案の2)の「出口管理」については、大学教育が多岐に渡っている昨今では、なかなか「学士号」単位で共通の能力基準を設けるのは難しいだろう。
ただ、大学のHPでカリキュラムを見ればわかるように、自分が履修した当時と授業名を見ただけでは「何を学んだ課目なのか」不明確な授業が多い。
その理由は、文科省へのカリキュラム認可期間やそのカリキュラムを担当する講師条件など「大学運営上の理由」がきっとあるのだろう。
ただ、学生を採用する産業界としては「成績証明書」を見ただけでは「この学生はどういう勉強をしてきたのか」が見えないわけで、そうなると「学士号の種類」だけでは必要とする人材に専門基礎知識が備わっているか不明確である。
そういった意味では「学士号」単位で「共通的な能力(履修課目基準)」の設定と言うのは大学教育の質保証における「出口管理」の側面から必要であるし、有効であろう。
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