「審査員としての本分や立場」が十分わかっているベテラン審査員にとって「審査の場を指導、助言の場」とすることが「審査の目的」「審査のそもそも論」として杓子定規に捉えれて適切ではなく問題であることは「100も承知」であるのは当然だ。
しかし、そういったベテラン審査員に見られる「審査の中でのコンサル的発言」というのは「審査技法不足」から来るものではないケースが実は多いと思う。

「結果としての企業のマネジメント規格への適合性をチェックするのが審査員」と割り切って、「審査側が、受審側がまったく認識せずに、説明できなくても結果は適合していることを審査で見出してくる」ことは審査員に力量があればいくらでも出来る。
しかし、それでは能力の無い会社は「マネジメントシステムが活かせる」という体感はいつまでも得ることは出来ない。
つまり前回触れた例え話で言えば「川魚はレシピを作って食べているけど美味しいと思った調理法は今まで経験した事が一度も無い」と同じである。
だからマネジメントシステムの活用に、たとえ前向きな会社であったとしても、マネジメントシステムの継続的改善活動は停滞するか形骸化する。
川魚の例で言えば「レシピが作成されていて、調理はしているけど、美味しいと思った事が無いから我慢して食べている」状態である。
つまりその先には、やがて「せっかく一度は期待し決意して導入したISOマネジメントシステムの真の修得・有効的な継続的改善・活用活動は終了」してしまうだろう。

このことは「自律した改善能力をまだ持ちえていないISO認証されている会社に対する審査方法をどう考えるか」と言う点で悩ましい。
「自ら現状の仕組みをきちんと説明でき、自浄改善能力が認められた企業のみがISO認証される制度」と認証制度を厳格にすることもひとつの方策だろう。
しかし、そうなると
「自律した改善能力のない多くの認証企業」と「そういった認証機関の審査料によって経営が支えられている多くの審査登録機関と審査員」は「難民」と化す。
なかなか一筋縄では解決できない。
(つづく)

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