私はこの感覚が希薄な方かもしれない。
仕事で始めてのお会いする方と話しているとたいていは「地元はどちらですか?」という話題があると思う。
説明するのが面倒な時は自分の会社がある「札幌です」というか、実家のある「千葉です」と答える。
しかし、正直どちらも強烈な地元という感覚はない。
地元意識や郷土愛が芽生えるのは、その土地に住んだ年数は関係が深いと思うがそれ以外に、
○幼馴染が身近にたくさんいる
○親類縁者が身近にたくさんいる
○「他所では暮らせない。ここが最高」という生活環境がある
などの要素がそろっていないと育まれない気がする。
例えば関東でいえば、東京のベットタウンと化している近県の新興住宅地で生まれ育つとあまりこの感覚は育たない。
ベットタウンに住居を構えた「ベットタウン世代」は、もともとの「地元」がある。
しかし「ベットタウン世代の2世」は何度かの引越しを経てそこに住んでいるケースが多いので、生まれた時から高校まで一緒に遊んだというような友人も、近所に親類縁者もいない。
「一応の地元(実家)」に帰っても殆どの幼馴染はすでにそこにはいない。
だから「今日は地元の仲間と地元で飲むんだ」という話を友人から聞くとある意味うらやましい。。
また、大人になるまでにいろいろな土地(地域)に住んだ経験があるので、それぞれの土地に適応していくための「郷に入ったら郷に従う」の精神がある。つまりその土地の文化や特徴、価値観を理解しようと心がける意識は、その土地で生まれ育ってきた人よりもずっと強い。
逆に言えば「ここじゃなきゃダメ」という意識は薄く、どこでも暮らせる。
このような経緯から「ベットタウン世代の2世」は、地元意識がどうしても薄くなるのではないかと思う。
こうした感覚を持った人間からするとどこにいても基本は「住めば都」である。
「ここにはここの、あそこにはあそこの良さがある」と常日頃から考える習慣がついている。
逆に言うと他者との違いも敏感かつ強烈に感じる感性があるから「この土地の悪い点」についても地元意識が強い人より見えていることがある。
話は変わるが、地方選挙を見ていると「自分達の町は地元で育った人間が変えていくんだ」というニュアンスで市民に訴えている候補者が多かった。
ふつうならば「すうっと」聞き流すフレーズであるが、私にはどうも引っかかる言葉だった。
うがった見方でその主張を聞けば「この土地(地元)に長く住んでいる人間じゃないとこの土地のことはわからないし、よそものには介入してもらいたくない」と言っているようにも感じたのだ。
もちろん、選挙だからその決意と意欲やアピール手法は理解できるから、主張するフレーズを捉えてあーだこーだ言うのは間違っている。
ただ「そこに長く住んだ人間でないとその土地の価値観は理解できないし、変えられない」という認識は違和感がある。
「(いわゆる)よそ者」の方が的確に状況把握し、大鉈(おおなた)を振るえることがある。
例えば、日産自動車を再生できたのもよそ者のカルロス・ゴーン氏だから出来たのだ。
自らを見つめなおすためには客観的な視点が必要だと思うが、その感覚はいろんなことを見聞きし、体験して育まれるのではないかと思う。
考えが極端かもしれないが、郷土愛や地元意識が強すぎると間違った民族主義や排他的な感覚が芽生えていく気がする。
また「地元だから」で許されたり優先される部分が生じると「良いものは良い、悪いものは悪い」という的確な判断が鈍る。
そう考えると地元意識が強すぎるのはどうなのかな、と思うのである。
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