友人の経営者さんに聞いた話だが、創業まもないまだお客さんがいない頃にオープン記念の招待状を何千枚も手書きで知人に送ったり、ダイレクトメール(DM)を作って1軒1軒のポストに宣伝ちらしを投函していた時があったそうだ。

その経営者曰く、招待状やDMの発送・投函は、それらが手作りであったのと、「ぜひお店に来て欲しい」の気持ちがこもったまさに「魂(たましい)を配っている」想いだったという。
また、当時は予算が少なく、招待状やDM作成を手伝ってくれる仲間も少なかったためにその作業をほぼ一人でやったので、招待状は誰に出したのかが頭の中にはっきりと残っている、と言っていた。

DMではないが郵送物でいえば、私は紙の年賀状を毎年約300枚ぐらい出している。
送り先はプライベートと仕事関係がだいたい1:2ぐらいの割合である。
住所のわからない友人・知人には電子メール(パソコン、携帯)の年賀状を出しているから、返り年賀も含めて年賀状と呼べる代物(しろもの)は400通近く発送しているのかもしれない。

これだけワープロ、プリンターが普及した時代であるのに、毎年「住所録のデータを作ろう」と思いながらサボってしまい、実は5、6年ほど前までほぼすべて紙の年賀状は手書きだった。
だから、12月になると年賀状作成の時間を3、4日は確保しておく必要があった。
しかし、仕事の関係でその「3、4日」がどうしても確保できなくなったのを機に、父親に「住所録入力作業」を下請して、ようやく「年賀状の手書き作業」から開放された。

しかし、「手書き作業」から開放されたら、今度は届いた年賀状について、こちらの発送の有無チェックに意外と手間取るようになった。
おそらく、手書きで宛先を書かなくなったために、この人に出したのかどうかの印象が薄くなってしまったようなのだ。
プライベートの発送先は「ひとことコメント」を入れているから出したかどうかの印象はまず残っているが、仕事用は葉書の表面も印刷のみのものが殆どだから、印刷であっさりと作成してしまうと住所録の発送リストとにらめっこしないとわかりにくい。

年賀状を見ていたら、同じ差出人から2通年賀状が届いていた。
宛先は印刷されているものだったから、プリンターの設定ミスで2枚印刷されたのか、または住所録にダブりで登録されていて、印刷された葉書をそのままチェックせずに投函したのだろう。
葉書の表にひとことでも添えれば、宛先の人を一瞬脳裏に浮かべながらピッタリとしたコメントを書くから、宛先が同じものがあれば気がついたかもしれない。

書くという作業は考える作業を伴うから、出したのかどうかの印象が残るんだろうな、と思う。
ただ、ワープロ書きは年賀状のような定型文だと「無意識」での流れ作業に手書きよりなりやすい。
年々、メールアドレスしか知らない友人・知人が増えているので、電子メールの年賀状は徐々に増えている。
したがって、電子メールの年賀状は手書きよりも印象が薄いかもしれない。

「年賀状はとりあえず出しておけばいい」という考えもあるのかしれないけど、出すときは宛先の人を思い浮かべながら考えて書くのがいいんだろうな、と思った。