「地盤沈下気味のプロレスをなんとかしたい-そんな思いから、声がかかればドラマにも積極的に出るようにしている」。

これは、プロレスラーの武藤敬司さんの言葉である。

武藤さんは、かつて同期入門の蝶野正洋選手、故橋本真也選手と共に「闘魂三銃士」を結成し、プロレス新時代の旗頭として一世を風靡していた。

現在はジャイアント馬場さんが立ち上げた全日本プロレスの社長をされている。また以前は「グレート・ムタ」という別のキャラクターとしても戦いに挑み、プロレス界を盛り上げることに努力を惜しまない人だと思う。

武藤さんが取り上げられることで、「プロレスに興味を持つ人が増えて、少しでもプロレスを多くの人に広めたい」との気持ちが強いのだと思う。


柔道家の吉田秀彦さんも武藤さんと同じような考え方ではないかと思う。 吉田さんは現在はPRIDEを主戦場としているから最近のイメージはすっかり「格闘家」であると思う。

しかし、その一方で「吉田道場」を経営(師範)して若手の柔道家育成にも力を入れている。格闘家の活動と同時に、「ビバ!柔道」というスポーツイベントを日本各地で開いて、柔道の普及の為に精力的に活動している。 きっと吉田さんの思いとしては、・「柔道は強いんだ」を証明したい・「吉田秀彦」が注目されることで柔道に関心を持つ人を増やしたいという気持ちではないのだろうか。


吉田さんは、バルセロナで金メダルを取り、その後明治大学柔道部の監督まで勤めていたから、柔道部の監督として実績を残せば指導者として全日本柔道連盟の要職に就くことも約束されたような存在であっただろう。

しかし、柔道界の約束されたポジション捨てて、格闘技界に飛び込んだ。

吉田さんより2つ上の「平成の三四郎」といわれた古賀稔彦さんが全日本女子柔道チーム強化コーチを務めたりして直接的に柔道界発展に貢献しているのと対照的な活動だと思う。


日本サッカー協会の専務理事までされた木之本興三さんが夕刊紙のインタビュー記事では、東京教育大学(現在の筑波大学)出身であるが、当時の東京教育大学サッカー部員には、「地元に教員として戻ってサッカー未開の地にゴールポストを立てる」という使命感があった、と語っていた。


そのスポーツを愛する人には、「自分の育った場所を発展させて行きたい」という思いが強いのだと思う。 ただ、その場所が「地盤沈下」(低迷気味)を起こしている時は、武藤さんや吉田さんのように外のフィールドに形を変えて出て行き、形を変えて出た先で注目を集めて、その場所の素晴らしさを伝えよう、という気持ちになるのだろう。

その世界の中にいるだけではいくら努力して世間にその場所の素晴らしさをアピールしても、八方塞がりで閉塞感を感じた時は外に出て、その場所を間接的に支援する方法もありだと思う。


「オーケストラがやってきた」という番組で監督・司会をされていたヒゲ面と豪快な笑い声がトレードマークの作曲家で指揮者の故山本直純氏が同期の世界的な指揮者として活躍していた故岩城宏之氏(メルボルン交響楽団終身桂冠指揮者:2006年6月13日逝去)に「俺は大衆に音楽を伝えていく、岩城は伝統的なクラシックの世界で頑張れ」というようなことをいったそうだ。これも、「俺がキャラクター化することでテレビに露出し、クラシック音楽の素晴らしさを世の中に広めて行こう」という思いだったのだろう。


「本業と違う世界で頑張っている人」にはそんな思いが秘められているのかもしれない。