一昨年、昨年と1月17日にブログを書きかけ、完成せず、投稿せずでした。
兵庫県神戸市で生まれ、育ちました。
阪神淡路大震災のあった1月17日は強く心に刻まれた日です。
震災当時は大阪市で独り暮らしをしていたので、家は特に被害はなかったものの、普段電車通勤をしていたのに、電車が止まり、バスも渋滞でいつ来るか分からない状態でした。
出勤するために、少し大きめのバスターミナルまで自転車で行き、バス停で並んでみましたが、全くバスが来る様子はなく、とぼとぼ大きな通り沿いを歩いていたら、職場の人が偶然車で通りかかって職場まで乗せてもらいました。
やっと午後になって職場(福祉系の相談業務)に着いたら、自分の担当エリアの状況確認と独居の高齢者に避難所の案内をしてくるように上司から言われ、再び外に出ました。
住んでいた大阪市とは違い、職場の在る市は被害はありました。その市の中でも、私が担当していたエリアは古い家屋が多く、半壊が多数出た地域でした。外壁が崩れて、家の中が丸見えになっていたり、屋根瓦が落ちていたりしていましたが、完全に倒壊した家は見かけず、建物倒壊等での犠牲者は0の地域でした。
さすがに早朝の地震だったので、私が行った午後にはほとんどの人は避難所に行っていて、家の様子が気になった人が少し戻って来ている感じでした。
顔見知りの女性が自分の家を見に来てと手を引くので、行ってみると、2階建てアパートの2階の女性の部屋は天井が一部無く、空が見えていました。
「屋根が落ちてきたけれど、私が寝ているベッドじゃなくて、横に落ちたから助かった。」
と少し興奮気味に話してくれました。二人で手を握り合い、
「助かって良かった、良かった!」
と言ったのを覚えています。
今ならそのうち仮設住宅が建ち、やがて災害復興住宅も用意されるだろう、何らか義援金も支給されるだろうと想像出来ますが、当時は大混乱で、はっきりとした話はなかなか出来ませんでした。
自分も関わった避難所にいた独居の高齢男性、将来に悲観的になって、帰らぬ人となってしまいました。
助かって良かったね、の後のことがとても重要だったけれど、新人の自分は目の前のことに追われ、どこまで不安に寄り添えたかは分かりません。
実家とは地震直後すぐに「無事」の確認が取れた後はしばらく連絡が取れず、電話の繋がりにくい状態が数日続きました。
私自身は当時、独身の独り暮らしだったので、時間外、休日は優先的に勤務が割り当てられ、実家に帰ることもなかなか出来ませんでした。
数週間経ち、やっと実家に帰ることが出来たのですが、電車の一部不通区間があったため、電車→歩き→バス→歩き→バス→電車と、歩きと乗り継ぎで何とか帰省しました。
途中、バスが火災で焼け野原となった所を通った時、車窓からは戦争映画の空襲の後のような風景が広がり、放心状態で眺めていました。
実家の辺りは鉄筋コンクリートの団地やマンションが多く、倒壊した建物もなかったし、スーパーも開いていて、あまり変わらなかった風景に少しほっとしましたが、家の中は大変だったようで、近所でも家財道具の下敷きになって亡くなった方はおられたようでした。
生まれ育った神戸の街の一変した様子に衝撃を受けました。
子どもの頃は体感する地震もほとんどなく、地震に対する知識も備えもありませんでした。
阪神淡路大震災の後は他の地域の地震でも他人事とは思えなくなり、防災意識も高まったと思います。
この辺りはずっと南海トラフ地震のことが言われています。
備えをして過ごしたいと思います。
最後までお読みいただきありがとうございました。