季節はもう冬に向かっているんだねぇ。急激に寒くなったね。
常陸での日々がもうすぐ終わる…。行ってみたかった店にはあらかた行った。
常陸牛も奥久慈の軍鶏もローズポークも、あんこうもリンゴも栗も蕎麦も、
堪能したね(食い物ばっかだな…)。美味しいものが多いところだった。

どこへ行くにも車がないと不便でどうしようもないから、私のような
「無事故無違反無運転」なゴールデンな人は、週末に旦那ちゃんといっしょに
お出かけするほかは、ときたま高速バスに乗って都内に出るのが楽しみだった。
旦那ちゃんは都会がキライみたい。「人が多すぎ」って、こないだの部屋探しでも
うんざりしてて、日立を離れることを淋しがってる。
今の部屋は日当たり良いし、広いしね。同じものを都内で探すのは無理がある。

旦那ちゃんは入社以来ずっとこっちで、職場での人間関係もさることながら、
フットサルやスキーの仲間も多いから、余計に離れるのが淋しいみたい。
私はまだ一年半で、その大半をひきこもって
(というか、近くに唯一あるファミレスに入りびたって)過ごしていたので、
人間関係はほとんどないに等しい。唯一、特別支援学校のボランティア講座くらいか。
あれもさ、私としては、「ちゃんとこちらの地に根づかなきゃ」と思って応募したんだ。
本腰を入れて、なじもうとし始めた途端に異動の話がくるなんて。ほんと不思議。

この先も、どうなるのか、どこへ行くのかわかんない。仕事では
しばらくは動かなそうだけど、海外に行く可能性だってゼロじゃない。
旦那ちゃんのTOEICの点はハンパない。新婚旅行でロンドンに行ったとき、
会話ではむしろ私の方がスムーズだったくらいなんだけど、TOEICのあの点はねぇ…
私はどーがんばって対策してもとれないと思う。それっくらいの、高得点。
だから、海外の仕事がまわってくる可能性もないわけじゃないんだ。
それはそれでいーな、そーなったらあたしも行こっかなー、くらいの気はある。
英語、しばらく使ってないからだいぶ錆ついちゃって入るけども。
はふぅ☆ えぇと、転勤につづき、お部屋も決まりまして。はぁ。けっこう大変でした☆

部屋探し、2日がかりだったんですが、初日は2軒しかまわれなかったうえ
(いろいろ待たされましてね…3連休だったからか、結構不動産屋が混んでいたガーン
いまいち…な部屋ばっかで。あう。まぁ、次の日、8軒、一気に見たうちの、6軒目が
わりと良かったので、個人的にはこれでOK!って感じで…結局その部屋になった。うふ♪

まぁ、ともあれ、引越かぁー。昨夜は、すべての本をひっぱり出してきて、
積み上げて、仕分けしていた。今も、その途中。
てか、すごい量には違いないんだけど、床につみあがった本のタケノコたち(笑)
を眺めていて、「減らしたもんだなぁー…」って、しみじみしていた。

image1.JPG

だってさ、独身時代に住んでた家の、下の和室に積み上げたときは、
四畳半の部屋一面、もう置くとこないよ(-_-;)っていうほどで、
それでも2階の半間の押入にあるやつは全く手つかず、という状態だったわけでしょ??
うわー、ずいぶん処分したんだなあーってね。しみじみ…。

ちょっとだけ、さびしくなる。蔵書。
「マイフェアレディ」のヒギンズ教授の書斎にあこがれた。
独身時代の家の、2階の洋間は確かに書庫だったんだけど、
そんなに居心地のいいスペースではなく。いつも下の和室に積み上げていた。
たくさん、たくさん持っていても、使わなかったら仕方がない。
今も研究者であるならまた別だけれど。研究するんなら、読んでなくても
手元に置いておく効用はあると思うけど。今は、ね。

書くことも、何かを調べることも考えることも好きだけど、
それは研究職のあり方とは違う。研究職というアイデンティティから
おりようと決めたのは2005年だけれど、どこか、9年たっても引きずっているものがある。
それだけ、注ぎ込んだのよ。金も労力も時間も。
だから、完全に手放すことが悲しい。まだ、抵抗したい。
片鱗だけでも残しておきたい。そういう、執着心が残ってる。
ぼくは何度かメールでシンディとやり取りした。それにより、彼女もスティーブという男と結婚していることがわかった。とはいえ、お互いをよく知るうちに、どちらの結婚生活も終わっていることがわかった。シンディとぼくは、知り合ってから1年ほどはほとんど会わなかったけれど、カレンとぼくが離婚の手続きを開始し、シンディとスティーブも手続きに入ると、ぼくは聖霊に、これまでどおり導きを求めた。その答えは、明らかすぎるほどだった。ぼくはシンディに、ロサンゼルスに部屋を探して、ぼくといっしょに引っ越さないかと尋ねた。2007年6月18日、ぼくはカリフォルニアに飛んで、もう二度と東海岸に住まないと決めた。

それぞれの州に離婚に関する法律がある。メーン州では、離婚しようとする夫婦はshould try to work out their own settlement. これは法廷での時間と金を節約するためだ。その過程で、二人の当事者と二人の弁護人が、「離婚調停人」と呼ばれるもう一人の弁護人の指示で、会合を持つことになっている。なので8月にぼくは、カレンとその関係者にルイストンの裁判所で会うためにメーン州に飛んだ。

ぼくはその部屋に最後に入り、緊張していた。カレンは不安そうで、彼女の弁護人は怒っているように見えた。調停人が開始を宣言した。カレンとぼくは大丈夫だったが、双方の弁護人は合意に至ることがなかった。これは初めてのことじゃなかった。弁護人たちにはこれまでの積み重ねがあって、特にカレンのような中年の女性を代表する弁護人の怒りを感じることができた。ぼくの弁護人は年配の紳士で年老いた政治家のように落ち着いた人だったが、カレンの弁護人はまさにその逆だった。彼女がぼくを300ドルのランチ代に関して責めたあと(ぼくはかつて、幾人かの人と重要なビジネスランチをしていて、そのために払っていた)、ぼくは彼女に、カレンのためにいくらほしいんだと尋ねた。彼女は答えた「すべてよ」。

これはぼくには全然フェアじゃなかった。ぼくはすべてのものをフィフティ・フィフティにしようとした。カリフォルニアのような「no fault」の州ではそれが普通だった。でもメーンでは、10年以上結婚しているならば、もし子どもがいなくても、配偶者に支払わねばならない。Since I made the most money, I was elected.

いまだ何の合意もなく、法律家たちの口論は的外れに見えた。2時間後、休憩となった。メーンに着く前、ぼくとカレンは夕食を一緒にとろうと計画していた。ぼくはこの休憩中に彼女に話しかけ、彼女も行きたいと言った。この会合でなんら進歩は見られず、調停人は双方に、裁判官が判断するよりもお互いが協議して調整しておくよう提案した。カレンの弁護人は彼女がぼくと夕食に行くことを嫌がっていたが、ぼくらはともかく、メーン州オーバーンにあるステキなレストラン「アップルビーズ」でその夜会うことにした。

カレンは1990年代に2年くらい『コース』に関わっていて、ポーランドスプリングよりもさらに小さいメーン州リーにある同じ『コース』の学習グループに行っていた。カレンはそのグループの人々が気に入っていた、というか、愛してさえいた。が、彼女はそれにのめりこむことはなかった。彼女は、ぼくがやっていたから関わったというのもあるけれども、むしろ彼女はほかのことに関心が移ったために、『コース』を実践したり(クリスマスの時をのぞいて)グループに行くのをやめた。

しかし、ぼくが去って、状況は変わった。カレンは再び『コース』に戻った。まるでそうするためにぼくが去らなくてはならなかったみたいだ。
(つづきです)

ドリスとシンディが移動すると同時に、ぼくは、2人が行った場所にある日ぼくを導くことになるメーン州に行こうとしてた。『コース』はいう。「救済には例外はない。聖なる関係を潜在的に持つがゆえに、会うべき人は会う。彼らは互いに準備ができている。」

ひとつのグループとしての私たちは、それぞれの道を歩んでいるけれども、ときに離れ離れになるにしても、いずれはどこかで再び合流して、良い関係を築き、欠点を赦し、お互いに本来あるべき姿を見る、という機会を得るよう運命づけられている。

1987年の決断の後、バンドから抜けるのに2年かかった。というのも、ぼくは様々な契約にサインしていたし、1年半も先の予定を組んであったからだ。1990年1月1日にメーン州に移り住み、17年半住むつもりでいた。

その間、カリフォルニアは全く眼中になかった。ぼくは相変わらずハワイに住むことを夢見ていた。『神の使者』が出版された1年後の2004年でさえ、カリフォルニアにはほとんど行ったことがなかった。その後、ぼくは初めてカリフォルニアを旅行した。ぼくのホストのトムが、サンタモニカの海岸通りをドライブしてくれたのを覚えている。そこからの眺めはステキだった。「すげぇ、かっこいい!」と思った。2冊目の本で書いたパーサの訪問で、彼女は「カリフォルニアはどうだった?」と尋ねている。ぼくはすごく気に入ったと答え、彼女は「いいわね。今後何度もそこに行くわよ。楽しんで」と言った。彼女はぼくの知らないことを知ってたんだ。

その旅の間、ぼくはサンセット・スプリングのハイアットに滞在した。自分がどこにいるのか、有名なサンセット・スプリングにいる以外にどこに行くつもりなのかもわからずに、ぼくはハリウッドを初めて歩いた。そして、スターらに魅せられた。ぼくはずーっと映画ファンだった。今ぼくは、その地にいるのだ。

しばらく通りを歩いた後、ぼくはとあるショッピングモールにぶらっと入り、「ヴァージンレコード」を見つけた。ハリウッドの歴史と何の関係もない大手レコード店に、なんで入ろうと思ったかはわからないけど、とにかく入った。曲目のセレクトやそこにいる人々を眺めながら歩き回っていると、ある通路に立っている一人の女性に気づいた。ぼくは強い既視感におそわれた。

彼女は背が低く痩せていて、赤褐色の髪と美しい顔をしていた。彼女はちらっとぼくの方を見たが、それだけだった。ぼくは1分近く彼女を見つめていた。彼女がCDを見るのに忙しくて、ぼくがぼけっと彼女を見ていたことに気づかなくてほんと良かった。ぼくは彼女を知っているという思いに駆られていた。この人生でなくとも、彼女を見たのは初めてじゃない。

今日、ぼくに会ったり人々の前でしゃべるのを聞いたりした人々には信じがたいだろうけれども、ぼくは人生の大半において、ものすごくシャイなんだ。It wasn't like I could just walk across the room and talk to a woman-that wouldn't even be within the realm of possibility. だから僕はそっちに行って話しかけなかったが、彼女の顔は絶対忘れないだろう。それはぼくの頭に刷り込まれた。ぼくは何度も彼女を思い返し、なんでこんにちはと言わなかったんだと歯噛みするだろう。でも、ぼくが「過去世であなたと会ってると思うんですけど」と言ったら?たぶん最悪の口説き文句だ。それに、ぼくは結婚してる。しばらくして彼女は立ち去った。

2年後、スピの世界の首都ともいうべきラスベガスで、ぼくはしゃべっていた。出版社のヘイハウスとともに講演を行い、その後サイン会をしたんだ。サイン会のとき、一人の感じのよいご婦人が本にサインを求めてきた。たぶん60代だろう。ぼくはよくわからないながらも、なにかの縁を感じていた。彼女はぼくの作品についてほめてくれて、ぼくらは社交辞令を交わした。その女性がドリス・ローラだった。

そして、それが起こった。次の人が近づいてきてぼくに話しかけた。ぼくは自分がだれを見ているのか信じられなかった。すべてが一度におしよせてきた。ぼくは、この女性が2000年前にタダイとしてぼくのビジョンに現れた男性だとわかったのだ。彼女がだれだったか、そして今世でだれなのか、ぼくは知っていた。彼女は今から100年後にはアーテンという名の男性―ぼくのアセンディッドマスターの1人―であり、2年前にハリウッドのレコード店で見かけた女性でもあるとわかったのだ。

彼女は、シンディ・ローラと名乗り、ミュージシャンだといった。彼女は、母がオハイオから車を運転して移り住んだ1987年からずっと、カリフォルニアに住んでいた。彼女は1作目の『神の使者』でぼくもミュージシャンだと知っていた。そして、自身のホームページを持っていると言った。ぼくはちょっと動揺してて、あまり頭が働かなかったけれど、つとめて平静を保った。ぼくはもう彼女を見失うのは嫌だった。何も起こらないにせよ、少なくとも、彼女のことをもっと知りたかった。ぼくは、サイトを通じて彼女とコンタクトを取る方法があるかどうか尋ねた。彼女はYesと答え、1分後、時間切れとなった。彼女は母親と共に去って行ったが、ぼくの心からは去らなかった。

ぼくは何度かメールでシンディとやり取りした。それにより、彼女もスティーブという男と結婚していることがわかった。

(つづきます)
Gary R. Lenardの3冊目、LOVE Has Forgotten No One - The Answer to Life- が
昨年10月に発売になりまして。日本語訳が出るまで待てなくて購入したはいいのですが、
なかなか読めずに早数か月、というかんじです。というかですねぇ、
この3冊目では、パーサであるゲイリーが、ついにアーテンである女性に出会う!という
運命のラブストーリー的なものを、下世話な読者としては期待してしまうわけです。
というか、もうゲイリーは、前の奥さんのカレンさんと別れて、シンディさんという女性と
ワークショップなんかでの活動を始めているわけなのですが。
そのへんの経緯が書かれている!!という、明らかに不埒な動機で読み進めている私です。

というわけで?そのへんが書かれている第6章を、ちょいちょい訳していきまする。
翻訳の勉強なんざまったくしていないので、訳文がわかんない&誤訳上等なところも
多々あるとは思いますが、しょせんは個人のお楽しみのための和訳です。ご了承くださいまし。

Chapter 6 LESSONS OF GARY

2007年6月までに、カレンとぼくはともに結論をくだした。ぼくたちは、別の道へ行くべき時だとわかっていたのだ。ぼくらはそれぞれ弁護士を雇い、離婚手続きが始まった。2人にとってつらい時期だった。ぼくらは26年ともにいたし、そのうち25年は結婚していた。It's not like we didn't try.

20年前の1987年、ぼくは別の決断をしていた。太陽系の惑星が一列に並ぶハーモニック・コンバージェンスが起こって、世界中の何百万もの人々が真実の淵に立ち、その信条と意図について考えたんだ。そのあと、多くの人生が別の道に行き始めた。それはすべて、あるべき姿でつながっていた。ぼくにとっては、自分のバンドHashと、主にボストン、ときおりニューイングランドで8年遊んだあと、自分の人生を変えることに決めた。

マサチューセッツ州ビバリーとメーン州ポーランドスプリングは2時間半しか離れていないのに、まるで別世界だった。ボストンの郊外、ビバリー=セイラム地区は人口密集地で、もし望むならあわただしい生活だってできる。ダウンタウンまで40分で行ける。ぼくも、何百回もフェンウェイパークに行き、もし試合が早く終わってしまったらケンモアスクエアのナイトクラブでパーティをし、スピリチュアルライフのために、頻繁にニューベリー通りのエストセンターに通ったものだった。

ポーランドスプリングは、ポートランドから45分ほど北、州都オーガスタから45分ほど南の小さい町だ。何マイルも田舎が広がるとても静かな場所だ。歩道も街灯もない。冬にはしょっちゅうボストンより10度は寒くなり、ニューヨークより20度も寒くなる。ボストンで雨が降ったら、メーン州、少なくともポートランドより上ではまず雪になる。ここは田舎の生活で、ぼくはシティボーイだった。しばらくはカルチャーショックを受けていた。良質のコメディは同じような状況をネタにするけど、ぼくにとっては、しばらくはおもしろくなかった。

エストは1974年にウェルナー・エアハルトがつくった変容プログラムだ。ぼくは、1978年12月に、ローガン国際空港近くのラマダ・インで、エストトレーニングと呼ばれるものをとった。もやっとした鬱状態の7年間と深刻な鬱の7年間に苦しんだあとのぼくには必要なものだった。エストは最初の考え方(thought system)を与えてくれた?。そして、ぼくが目にするすべてのものの考え方、2年足らずで僕を鬱から引っ張り出してくれたものごとの解釈の仕方について、新しくて筋の通った考えを教えてくれた。エストは『コース』ではないけれど、驚くほど短期間でできる良い教育方法だった。と同時に、すばらしい『コース』トレーニングの下地になった。約14年にわたり、百万人の人々が「トレーニング」と呼ばれるものを受けた。最低10万人が、そのあと『コース』を研究したんじゃないかと思う。

1987年のハーモニック・コンバージェンスのあいだ、ドリス・ローラという女性もある決断をしていた。彼女は、娘のシンディといっしょに、オハイオから太陽燦々の南カリフォルニアに引っ越したのだ。もう一人の娘のジャッキーは、すでに大学に行っていたが、のちにカリフォルニアで合流した。2つも博士号を持つ(音楽と心理学)聡明な女性ドリスは、ぼくと同様シャーリー・マクレーンの影響を受けていて、南カリフォルニアの開放的な人々のなかで新しい生活を始めねば、という思いに駆られていた。

ドリスは娘と2人、アメリカの半分を走った。テキサスを走っているとき、彼女は疲れきり、ガソリンも足りなくなった。彼女はどれほど長くもつかわからなかった。彼女は「教えてください。私は正しいことをしているのでしょうか」と尋ねた。ドリスは答を得た。

突如、ある力が彼女の車を前に押し始めた。しばらくはドリスが運転しなくてもいいくらいだった。車と中の二人は助けられた。ドリスと娘が行くべきところに行くのを助けたのは聖霊だった。

(つづきます)
金曜の夜に旦那さんが帰ってきてお話が。どうも国分寺に転勤になることが濃厚らしい。
8~9割、とのこと。まぁ、飲み会で上司さんからきいた程度らしいのだが。
けっこう衝撃受けてます。揺さぶられてる。
昨日は3時間くらい、私は携帯で、彼はPCで、国分寺周辺の物件情報を見てた。
なんか、そんなこと考えるとさ、スーパーに買い物に行ってもいろいろ躊躇してしまう。
しかもさ、まだ「確定」ではないわけですよ。
どっちなの?!ハッキリしてぇぇぇッ!!ってかんじ。

時期もわかんないしさ。早ければ11月1日…って(◎_◎;)
なんとなく、わりと旧い企業文化をもつ大企業の異動って年1回、もしくは
4月と10月の年2回程度だと思ってたんですけど…
11月かもしんないし、年明けすぐかもしんない。

せっかく、それなりにこっちにも慣れてきたのになぁ、という気持ちと、
また都内に遊びに行きやすいところに住める♪というワクワク感と。
旦那さんは会社のスキー部に入ってるような人なので、
甲信越のよりも、福島や山形のスキー場の方がすいてるし
いろいろと良いのになぁぁぁーと、ちょっと、しょぼーん、なかんじ。

私は、まぁ、歓迎ではあるかなぁ…。女の人はやっぱり都会の方が好きよね☆
ここにいると、どうしても(車の運転がイヤなので…ゴールド免許
=無事故無違反無運転、ってやつ☆)ほとんどお家でひっきーしてる生活になってしまう。
それでも、少しは、地元の特別支援学校のボランティア講座とかに
行き始めたとこだったんだけども…。

こないだは久々に、原宿の太田記念美術館と渋谷のユーロスペース(←映画館ね)
に行ったりして幸せ気分にひたってました。
が、高速バスで片道2時間半前後、¥4,000くらいかかるわけで…。
今度、もし国分寺周辺に住むことになったら、あのへんはまったく土地勘ないし
(私ほんっとに新宿の西側はわかんないのよ汗)、そこそこ田舎ちっくかも
しんないんだけどさ。そこは腐ってもなんとやら、今の
茨城北部に住んでる不便さとは比べるべくもなく…。

しかしなぁ…農産物は少なくとも圧倒的に、いろいろ魅力的ではあるんだよな、こちらはな。
こないだA5ランクの常陸牛を、肉屋さんが経営してる焼肉屋に食べに行きましたけど、
そりゃーうまかったでございますよ。甘くてとろけるようで、しっかり肉の味もして。
ちょっとドライブすれば、リンゴ狩りだの軍鶏だのあるし。
漁港近くの「おさかな市場」は最近「道の駅」になったらしい。
お客さんが来てくれるといいねーってかんじ。内容的にはそう変わらんのだろうけど…
お魚売ってて、それを食べられるお店やお寿司屋さんがあって。
正直、私にはどう食べたらいいのかわかんないような、いっろんなお魚を売ってる。
まぁ、普通のラーメン屋さんもあるけど(あ、普通ではないか、あの大盛っぷりは…)。

住めば都とかいうし、それぞれいいところはあるわけです。
とりあえず、今のあたしの心境としては

「ハッキリしてぇぇぇーーーーーーーーーーーーーッッ」

これにつきます。引越準備ったって、相当めんどくさいわけですよ。
特に私のような、本好き&紙モノが多い人間は…。
あと、この夏はだいぶ台所の収納とか工夫してたりさ…
てか、こないだ消耗品のストック(トイレットペーパーとか)を
しこたま買ったばっかじゃん!!とか。
歯医者探して行こうと思ってたけど、どーせ引っ越すんなら
向こうで探したほうがいいよなぁぁぁとか、いろいろいろいろ考えちゃうよーッッッ。
そうなのよ。どっちでもいーんですよ。どっちでもいーから
とにかく早く確定させてほしい、とゆーのが、ワタクシの切なる願いですあせる
映画評論家の町山智浩さんがTBSラジオ『たまむすび』でアメリカの肥満と栄養失調について
のドキュメンタリー映画『Fed Up』を紹介されていて、それを聞いて唖然としました。
ひどいっすわ、本当に。企業の金儲け主義な力が、入り込みすぎてるんだよ。
こちらで文字起こししたものも見れるようですし、ぜひご覧になってくださいまし。



たとえばね、巨大スーパーに負けて、小さな食料品店が絶滅し、歩いていける範囲で
生鮮食品を売っているところがない、車を持っていない貧しい人はジャンクフード
ばかりを食べている。学校給食も栄養士協会も、ジャンクフード会社に支配されている…。

“カロリー過多の栄養失調”と昔、私もアメリカの状況について友人に語ったことが
あるけども。さらにひどくなってるみたい。普通の日本人なら、体調がおかしくなる。

キャロル・キザイアというすんごいパワフルなおばちゃんがいてさ。
赤毛で声がでかくてほんと戦士みたいなんだけど、彼女が代表を務めていた
ライフ・ラーニング・アカデミーというチャータースクールに、行ったことがある。
サンフランシスコでね。当時けっこう話題になってたらしく、
私たち(お茶の水女子の院生と2人で行ったの)だけでなく、多くの見学者がいて、
彼女の熱弁を聞いた後、その学校内でつくられたという給食をごちそうになった。

グリルしたチキンに『マンゴーソースかける?おいしいよ』ときかれて。
いや、いい…と答えたことくらいしか、残念ながら印象に残っていないんだが(爆)
だってさぁ汗 なぜ肉に甘いソースをかけたがる??アメリカ…
他んとこでもあったんだよ~ビーフにチェリーソースとか…やめてくれ叫びあせるあせる

それでも、そこの食事はそこそこ美味しかった記憶がある。ボイルした野菜とかも
あったんじゃないかな。でね、何より、そこの子どもたちが作ってるの。
作りたてのごはん。冷凍ピザをチンするとか、袋詰めにされてるデニッシュとか、
シリアルとか、そんなんとはやっぱり全然違う。
『ちゃんとしたごはん食べた』って実感が得られる。心と体がともにみたされるかんじ。

数年前、大学時代の友人と話してて、「ジャンクフードは美味しいとも思うけど、
いくら食べてもおなかはキツくなるのになぜかみたされない。だから最近は
少しずつでも自炊してる。自分で作ると、そう量を食べなくても何かみたされた
かんじが得られる」という話をしてね。賛同を得たことがあった。
舌はよろこぶんだけどね。ポテチとか冷凍ピラフとかレトルトものって。
けど、なんっかスカスカしたかんじが残って、それをうめたくなって、もっと食べちゃう。
物理的におなかが苦しくなってそれでやめるんだけど。

アメリカって、マクロビやローフードなんかは、日本人以上に熱心にやってる人多いよね。
他方で、とりあえずジャンクだろうが食えりゃいい、という人たちがたくさんいる。

日本でも、いたなぁ。家に帰っても食パンくらいしかない。それすらないこともある。
だから、スクールにいる間にとにかくたくさん食っとこう、みたいな子。
あたしらも状況はわかっているから、とにかくここにいる間だけでも
まっとうな食い物を食べさせてやりたい、と、プチ調理実習みたいなことを
空き時間にしょっちゅうやってた。やっぱり、冷たいパンだけじゃ、ね。
野菜も肉も必要でしょう?人の手でつくられた食事って、
加工食品を温めただけのものとは、ちがう滋養があるでしょう?

キャロル・キザイアがひきいていたライフ・ラーニングというのは、実は海軍の
敷地内にあってね。犯罪を犯した子どもの学ぶ権利も守られなければならない、
という理念にたって創られた学校だったの。毎日刑務所に、スクールバスが
子どもたちを迎えに行く。保護観察中とかで家にいる子は、家までそれぞれ
迎えに行って連れてくるの。じゃないと、放っといたんじゃそういう子は来ないから。

海軍の敷地にあるというのは、理念に共感してくれて非常に安く(タダだったかな?)
土地を提供してくれた、というのと、やっぱり犯罪を犯した子どもが集うとなれば、
他の土地だと周辺住民が反対する、ということみたい。

で、勉強するとともに、自分たちでご飯を作り、みんなで食べる。
食事を作るスキルも学べるし、ちゃんとした栄養も取れる。
ここ数年はフォローしてないんだけど、ネットで見たらちゃんとまだ存続しているらしい。
チャータースクールは栄枯盛衰が激しいからね…がんばってほしいなぁ。

私はさ、ウクライナってロシアの一部くらいにしか思ってなかったんだけど、
ロシアに行って、そうじゃないことを知らされた。
ロシアのワインくださいって言ったら「ない」って言われて、
ウクライナの…って言ったら、あぁウクライナのね、ってかんじで出してくれた。
そのワインのボトルには、ロシア語とはほんの少しだけ違う言葉が書いてあった。
多分あれがウクライナ語。

あと、ソチのフィギュアの団体戦で、ウクライナも予選に出場してたんだけど、
会場の満員のロシア人たちは、ウクライナの選手にほとんど拍手をおくってなかったの。
びっくりした。親戚みたいなもんでしょ?くらいに思ってたんだけど、
ちがうらしい。こないだまで一つの国だったんだし、人の交流も多いだろうに、
カナダや日本や、要はロシア以外の国に対する態度とほとんど同じだったの。
そんなもんかなぁ…まぁ、ソ連が崩壊したときに別々の国として独立したってことは、
それなりに折り合いが悪いんだろうね…

そう、オリンピックの功罪、なんてことを考えちゃうの。
でも、そこを目指して頑張っている選手たちのことを思うと、
「やめちまえ!!!」なんて言えないし。

今はワールドカップっすね。あたしはサッカー自体は好きなんだが、
どうも国全体で盛り上がってると、逆に冷めるくせがある。サッカーは好きよ。
小学校の頃は、よく男子にまじってやってた。球技が苦手なあたしが唯一好きな競技。
女子なのに、ペナルティエリアからボール蹴ってハーフラインをこえるくらいの
脚力はあって、体をはったプレイも血の気の多い当時のあたしには合ってたみたい。

今は、元サッカー部の旦那さんはフットサルをやっているけど、私は見る専門。
なでしことか、見るの好きだし、アントラーズのホームゲームにも去年行った。
けどねぇ…ワールドカップは、なんか異様な盛り上がり方をするでしょう?
盛り上がらないヤツは日本人じゃない!!くらいな。
そーゆーのダメなの。きらい。天邪鬼。

だから、これまでのWCはほとんど見てこなかったんだけど、今回は
元サッカー少年の旦那ちゃんに引きずられ、録画までして見ております。
たしかに、スペイン・オランダ戦とかはすげぇ~と面白がって見てたけど☆
世界ランク1位がめたくた…

なんかね、旦那ちゃんは、友達同士で賭けをしてるんだって。
予選リーグの1位と2位、優勝国、得点王を予想して、それぞれに点数をつけて、
それに応じてお金のやり取りをするらしい。。。

好きねー…という以外の感想はなかったんだけれども、
私も、お金はかけないけど予想リストを作ることになり☆
読み慣れないサッカーマガジンをめくって、なんとか予想してみました。
とりあえず、ネイマールが得点王でブラジル優勝、という…どうなることやら??

コートジボワール戦もライブで見たし、今度のギリシア戦も出勤前に
早起きして見るそうです。30分ほど遅れて出勤すると、もう既に宣言してあるとか。
フレックスなので、ま、問題ないんでしょーが…正直、みなさんよーやるわ汗
とりあえず、負け試合の後本気で落ち込むのはやめてほしいんですが
一緒に住んでいる人間としては…まぁ、あたしも、ソチのフィギュアの個人戦では、
おそらく異様なまでに一喜一憂してたから、全然人のことは言えないんだけども。
私はどうにもフィギュアが好きなのだけど、オリンピックのたびに採点でもめるんで、
いいかげんオリンピック種目でなくなっちまえ!!とかも思うんですけど、
やっぱり選手にとっては、夢の舞台なのよねぇ…
羽生が、ソチのFSの日は、宿舎を出てから演技の終盤までの記憶がない、と
語っているようで(こちらの方のブログから)。
そこまでなるほどのものなのか…というのが正直なところ。

で、その夢の舞台でさ、恣意的な採点に傷つけられて終わる人も
毎度のようにいるわけで。真央ちゃんとかさ。
昨夜、バンクーバーのジョニー・ウィアーのFS見てたんだけど、
クワドこそ跳ばないもののほぼノーミスで、なんであれで6位なの、って
やっぱり思うよね今見ても。点数が出て、会場のファンのブーイングを、
ジョニーが手を顔の前で上下させて、抑えてたのが印象的だった。
悔しいし悲しいだろうに、笑顔でさ…

まぁね。なんといっても、世界選手権なんかより、見る人数がケタ違いだものね、
オリンピックは。だからこそ、巨額の金が動く。
だからこそ、純粋な競技以外の思惑が入り込む。ほとんど、国と国との代理戦争。
国威発揚競争になってしまう。それがイヤ。
グランプリシリーズとかで、選手個々人を応援してる時とは、まるで雰囲気が
違ってしまうんだもの。気持ち悪い。競技内容の出来不出来なんかより、
順位にしか関心が向かない。勝ちゃいーのよ、という世界…

ソチの後さ、すぐに、パラリンピックはこれからだってのに、ウクライナが
ごたつき始めたでしょう?なんとなくだけどさ、その直前のソチオリンピックで、
ウクライナにしろロシアにしろナショナリズムが刺激されたことも、
あながち無関係じゃないんじゃないか、なんて思うんだ。

ロシアは今回あちこちで、ロシアの強さを見せつけたでしょう?五輪が四輪になる
なんてアクシデントもあったけど、それすらも閉会式で演出にかえてみせた。
バレエやサーカスやクラシック音楽や絵画や…それだけ豊かな
文化的伝統があるのだと見せつけた(実際、19世紀あたりからのロシアはすごいよなあせる
それを見たウクライナに住むロシア人たちは、その栄光に自らもあやかりたいと
思っても不思議じゃない。ウクライナ人は、逆に、
自分たちはウクライナ人なんだと強固に認識させられたのかもしれない、なんて。
うわ、雷鳴ってるー…どうしよう??
しっかし、あたしはなんでこんなに雷が苦手なのかしら?
あたしが雷を怖がってると、たいてい周りの人間にいじられるのよねぇあせる
あえて、私が怖がるような、雷で死んだ人の話とか、
自分の間近に落ちてびっくりした体験とかをしてくれる。いらんちゅーに。
それを初めて強く感じたのは、中学の部活中に雷が鳴った時だ。

あの頃住んでいた本庄という町は、“あの”熊谷の近くで、夏暑く、冬寒い。
特に夏は、体温以上に暑くなるので、よく夕立が起こる。雷もしょっちゅう。
だから、あそこにいる間に、多少は雷に慣れるようにはなったのだが…

本庄に来た最初の夏は、どっかんどっかん鳴ってる中で、たしか
たまたま家の中は私しかいなくて、怖くてどうしていいかわかんなくておろおろしてた。
電気をつけていると、その電気が雷を呼びそうで、家に雷が落ちる確率が上がるんじゃ
ないかしらと気になって、家じゅうの電気を消して歩いて、
薄暗いなか、部屋のすみっこに座りこんでじっとしてた。
その話をすると笑われるんだけど。

なんですみっこで体育座りしてたら、雷の被害から少しでも逃れられるような
気になってたんだか、今思うと意味不明。でも、こわかったんですもん。
あの音が特に。体全体にたたきつけるように響く轟音。

稲妻もこわい。ギザギザで、いかにも「電気!!!」ってかんじで。触れたら死ぬよ、って。
特大の、とんでもない凶器が、空じゅうをとびまわり、荒れ狂ってるようなイメージ。
「それ」はとっても気まぐれで、思わぬところに火柱をたて、
そこにいる人間を真っ黒焦げにするような…私にとっては、そういうものだったのよね。

で。夏休みの部活の最中に、本庄名物?夏の風物詩??…空が真っ暗になって、
ドロドロ、ゴロゴロいいだして、その音きくだけで、私はおろおろと挙動不審になっていて、
その様子がまわりの子たちには、妙におもしろかったみたい。

日頃、私はわりかし、落ち着いた優等生然としているわけですよ。
はしゃいでテンション上がることもなければ、怒ったり落ち込んだりすることもない。
論理的にしゃべることを好むし、皮肉っぽかったり冷めた見方をしていたり。
そんな私が、雷ひとつでおろおろして、半分泣きそう、くらいになっているのだから、
雷に慣れた本庄の中学生たちからすればおかしくって仕方なかったのかも。
一気に「いじられキャラ」になってしまいましたわその日は…

おぉう。とかとか、書いていたら、外が晴れてきたよ。よかったよかった。
あぁ怖かった。…そしてすげぇ日差し。謎な天気だなぁ。

そして。虹!!!RAINBOW~音譜
あんまりうまく撮れなかったけど…よく見たら、ほんの数十秒だったんだけど、
半円状にでっかい虹がかかって…ほんとうに綺麗。
なんだろうねぇ、虹って、見つけると自分がすげぇラッキーって思えるよね。
道行く人々に、見て見てあそこ!虹出てるよ!!って言いたくなっちゃう。
…言わなかったけどさ☆


KIMG0074.JPG…なんでタテになんないのかな???