サラリーマンFXトレーダー堀江昇プロフィール
初めまして。
管理人の堀江昇と申します。
私は現役サラリーマンとして日中働きながら、朝晩の隙間時間を使ってFXで稼げないかと研究中しております。
関連メルマガも書いているので、是非ともご登録ください。
メルマガ:時間の無いサラリーマンでもできる、稼げるFX通信
http://www.mag2.com/m/0001201090.html
以下、私の自己紹介となります。
名前:堀江 昇
性別:男
血液型:O型
生年月日:1981年(昭和56年)1月14日
星座:やぎ座
同日生まれの有名人:
ルー大柴、石田純一、柴田理恵、新山千春
ちなみに、南極大陸でタローとジローが発見された日でもあります。
占いでは....
よく「カミソリのように切れる」と表現される、頭の回転の早い人です。
他人の行動が歯がゆく感じられ、つい皮肉を言ったりしがち。
人望を得るためにも、ある程度人には寛大になりましょう。
個人的には超寛大だと思います。(゜▽ ゜)
身長:172cm
体重:72kg(ダイエット中)
東京生まれ、沖縄育ち
趣味:パソコン、合気道、FX、嫁、息子と遊ぶこと
仕事:IT営業、投資
学歴:中国人民大学卒
家族:中国人妻、息子
FX歴:2010年1月開始
FXを始めた理由:
今この時代、収入源が1つしかないというのは危険な状態。
一生収入を生み出すスキルとして、FXを使いたいと思ったから。
どんなトレードをしたい?:
日中仕事をしているので、一日中チャートを見ているのは無理。
出来るだけ楽に、安定して利益をあげる仕組みを作る。
利用FX業者:
FXCM
・システムで勝手に動か用。口座はイギリスで開設。
Click証券
・スプレッドが低いから。こちらが本番。
トレード手法:
・シグナル配信
・システムによる自動トレード
・日足だけで判断するデイトレード
・朝、晩に注文する逆張りデイトレード
これから、私の半生をお話ししたします。
長いですが、私がどういう人間か分かって頂けると思います。
お時間のある時にご覧ください。
■奇跡の誕生
1981年1月14日、港区に生まれます。
兄2人、姉1人の4人兄弟の末っ子として生まれました。
母が妊娠中毒だったため、3ヵ月の早産。
体重はわずか1850gでした。
最初の3ヵ月は触れる事も抱く事も出来ず、保育器の中で過ごしたそうです。
今調べてみたら、当時の体重1000gから2000gの未熟児の死亡率は25%だったとの事。
どっこい今は図太く生きています。
感謝感謝。
でも、アトピーとぜんそくはその後も引きずる事になります。
■3歳で沖縄へ
父は公務員をしており、3歳の時に仕事の都合で沖縄へ転勤。
私の記憶の始まりは沖縄からです。
小さい頃は母親か姉にくっついて遊んでいました。
女の子と遊ぶことの方が多く、ゴム弾をしていました。
浦添市にある浦添幼稚園へ通っていましたが、
そこでは喧嘩が強く、ボス的な役割を。
喧嘩になると縄跳びをブンブン振り回す友達に、
「そんなもん当たっても痛くない」と正面からぶつかっていました。(本当は痛かった)
小学校もそのまま付属の浦添小学校へ。
学校の帰りはサトウキビ畑でサトウキビを盗んでいました。
というか、田舎なので、子供が1本、2本、サトウキビを盗んだくらいでは文句は言われません。
子供の力でサトウキビを折るのは相当大変でした。
サトウキビ畑には番犬がいたのですが、友達が番犬の気を引く役、私がサトウキビを折る役をやっていました。
当時、ガチャガチャで「噛みつき婆ちゃん」という消しゴムが売られており、
銀紙を100円玉の大きさ、厚さに作って、不正にガチャガチャを遊んでいました。
なんか盗んでばっかりですね。(゜▽ ゜)
危険な遊びが好きで、爆竹を石ころの隙間に挟んで爆破させる「発破作業」、
爆竹の火薬をほぐしてガチャポンのケースに入れ、爆破させる「ガチャポン爆弾」、
などをしていました。
また、今思っても不思議なのですが、バッタの構造が知りたくて、バッタを解剖。
友達と一緒にバッタを大量虐殺していました。
当時、沖縄では紙芝居屋が存在しており、
近くの公園で紙芝居を上映していました。
紙芝居が来るとおこずかいを持って、三角形の飴を買いに走ったものです。
私にとっては当たり前の幼少期の記憶ですが、どうやら1981年生まれの人間にとってはおかしいらしく、
「お前、昭和何年生まれだよ!」と言われます。
なので、50歳代の人と話が良く合います。
沖縄はちょっと時間のながれが遅いようですね。
生まれつき身体が弱かったですが、
沖縄の自然とワイルドな生活に鍛えられ、
ぜんそくもだいぶ良くなりました。
6歳の時に「ともこ」という子と初恋に落ちます。
バレンタインデーでチョコレートをもらうのですが、
ホワイトデーではホワイトチョコを返していました。
東京に来てキャンディーを返すと知って驚きました。
いや、ホワイトチョコレートの方が絶対に美味しい。
白いし。ホワイトデーにぴったりだと思います。
■7歳で東京へ
3歳から6歳、小学校1年生まで沖縄で過ごし、小学校2年生からは東京に戻ってきました。
東京都北区にある西浮間小学校というところに通います。
ビックリしたのが、言葉が通じない事。
いや、本気で。
私にとって、言葉=沖縄弁だったのです。
同級生にバカにされ、毎日泣いて帰りました。
しかし、そこは子供、いつの間にか標準語をすっかりマスターし、
今では沖縄弁はみじんもわかりません。
ただ、先日、子供の気になって会話を作る機会があり、
語尾に「さー」を連発していました。
他の人から「堀江君、沖縄の人?」と聞かれるまで、それが沖縄弁だとすら知りませんでした。
幼稚園からボスタイプだったので、小学校でも学級委員などを率先してやっていました。
成績はそこそこでしたが、肥満児だったので体育の成績だけはダメでした。
何か運動をしようと放課後にはサッカー、週末には地域の野球チームなどに所属しますが、
運動神経がからっきし悪く、ずっと補欠でした。
ただ、昔から相手の動きを読むのは長けていたので、
サッカーの守備は強かったです。
後に柔道や合気道を始めますが、ボールを追いかけるより、相手の動きを察知する武道向きだったのです。
■そのまま中学校へ
そしてそのまま公立中学校へ。
生活そのものは小学校の頃と何も変わりませんでした。
上手くも無い野球をやり、生徒会長とかやっていました。
成績はそこそこ良く、特に実技系(家庭科、図工、音楽、体育)を入れると、学年5番以内に入っていました。
英語が好きで、英語の成績は良かったと思います。
生徒会長として人の前で話す機会が多く、
しかも何も原稿を用意せずに堂々と話すことが出来ました。
先生もそれを知ってか、朝礼中にいきなり
「堀江君、このあと、あの話して。」
と言ってくることもしばしばでした。
特に何かやりたい事も無かったので、高校は普通科を希望しました。
地域では1,2位を争う進学校、小石川高校を希望。
私の成績ではギリギリだったのですが、
生徒会長やらそういう事をやっていたため、推薦面接で合格。
人当たりも良いのだと思います。
成績学年トップの優等生も一緒に面接を受けたのですが、彼は不合格。
しかし、彼は普通に試験を受けて合格しました。
さすがだと思いました。
たぶん、普通に試験を受けていたら、私は落ちていたでしょう。
高校入学後に知ったのですが、5人に1人は中学の成績がオールAでした。
恐ろしいところに入学したものだと思いました。
生徒会長、野球部、とモテそうな雰囲気ですが、
相変わらずの肥満児で女性の影はみじんもありませんでした。
友達から「結構人気があるみたいだよ。」とかいう話は時々聞きましたが、
実際につきあうとか、彼女が出来るとかいう恋沙汰は有りませんでした。
というか、誰かコクれ!
■母との死別
中学時代の思い出と言えば、母との死別があります。
中学2年生、14歳の時、母は心臓発作で帰らぬ人となりました。
母は夜中に発作で病院に運ばれ、明け方に亡くなったのですが、
当時の様子は今でもはっきりと覚えています。
なぜか妙に冷静だったのが印象に残っています。
明け方に病院へ行ったのですが、
「どうせ泣くのだから、ハンカチくらい持って行こう。」
と考えていたのを覚えています。
しかし、この出来事により、4人兄弟の末っ子の私は、
強引に精神的に独り立ちさせられました。
当時の私はまだ周りから、
「やっぱり末っ子よね。甘えん坊の顔している。」
とよく言われていました。
また、同時に母の偉大さを知った日でもありました。
私の母は家の事は保険とお金の取り扱い以外、
何でも私達兄弟にやらせていました。
掃除、洗濯、食器洗い、料理.....
家事と言われるものは、兄弟で当番制でやっていました。
友達の話を聞いてもそこまで何でもやらせるのは珍しく、
「なんでうちばっかり....」と感じていました。
ところが、母が亡くなって気づきました。
うちは母がいなくても、今まで通り生活できる仕組みになっていたのです。
母がそこまで考えて厳しく私たちを躾けていたとは思えませんが、
結果的には理想の母親だったと思います。
この母の考えは今の私にも引き継がれています。
親は子供と慣れ合うためにいるのじゃない。
自分一人で生きていく力をつけるために、親がいるんだと、そう思います。
■柔道一直線
高校に進学し、やりたかったことは柔道でした。
理由は2つありました。
1つ目は、野球部では運動神経が悪かったため、みんなの足を引っ張って非常にきまづかった事。
チームプレーではなく、個人プレーがしたかったのです。
2つ目は、4人兄弟の末っ子という事もあり、兄弟に喧嘩に勝てなくて悔しい思いをしていた事です。
高校受験の甲斐あって、当時の私は完全に運動不足。
体重は86kgもありました。
しかし、柔道部に入ると1ヵ月足らずで76kgまで落ち、その後、筋トレで83kgまで増えました。
当時は勉強そこそこに柔道ばっかりやっていました。
お昼休みは筋トレをするため、10時半にはお弁当を食べ、お昼休みは筋トレルームへ直行でした。
当時のベンチプレスMAXは120kg。
腕の太さが半端じゃなく、アメリカのホームラン王、マクガイアと呼ばれていました。
当時は本当に強くなることしか興味が無く、いつもピリピリしていました。
クラスメイト曰く「近寄りがたい人だった」との事。
今思えばそう思われても仕方のない事だと思います。
でも、生来から病気がちで、よく風邪をひいていました。
今ならわかるのですが、「弱い」という事に非常にコンプレックスを感じていました。
それは中国で合気道をやるまで続いていました。
■地下鉄で運命の出会い
中学から英語が好きで、漠然と海外で生活したいと思っていました。
そろそろ進路について考えなくてはならない高校2年の秋の事でした。
地下鉄の定期券売り場で、定期の買い方が分からなくて困っている黒人さんと出会いました。
私にとっては生まれて初めて外国人と1対1で話をする機会でした。
つたない英語で、身振り手振り説明。
何とか無事意味が伝わり、外国の人と意志の疎通をすることがこんなにも楽しい物かと感動しました。
そして、大学は外国語学科に行くことに決めました。
でも、問題は何を専攻にするかです。
英語、フランス語、ドイツ語.....一言に「外国語」と言ってもたくさんあります。
そんな話を先生としていたら、担任の先生が、
「その言葉を使って、本当にその国の事を知りたいという国が良いよ。」とアドバイスをくれました。
そう思ったら、アメリカも、ヨーロッパも、興味はあるのですが、あくまで海外旅行程度の興味。
深くまで知りたいとは思いませんでした。
一方、中国。
当時は今の様に有名ではなく、当然WTOも北京オリンピックも決まっていませんでした。
世界の工場、と呼ばれ、ユニクロが中国工場で成功している、程度の知識しかありませんでした。
一方、香港では風水を信じて家のドアを斜めにつける人がいる、などのテレビ番組を見て、
可笑しな国だな、と思っていました。
漢字や文化など日本は中国からたくさん影響を受けているのに、
自分は中国について何も知らないと知り、中国についてもっと知りたいと思うようになりました。
当時、古文の時間に漢詩の授業がありました。
私の高校では中国語の授業は無いのですが、なぜかその漢詩の先生が中国語の話せる先生で、
「漢詩は音が大切です。
これから漢詩を中国語で読むので、皆さん音を楽しんでください。」
と、中国語で漢詩を読んでくれました。
その発音の美しい事!
漠然と中国に興味を持っていた私ですが、その中国語の音の美しさに魅了され、
「よし!中国語をやろう」と決心しました。
■進学校なのに....
当時は中国に注目する人は非常に少なく、大学で中国語学科を設けているところも極限られていました。
ざっと覚えている大学は、
公立では東京外国語大学、大阪外国語大学の2つ。
私立では神戸外国語大学、北九州大学、大東文化大学...あとはちらほら。
私の通っていた高校は進学校だったため、東京外国語大学を目指して試験勉強をしました。
もともと英語が好きだった私は、英語の勉強は苦にならず、
高校3年の夏休みの模擬テストで東京外国語大学Bランク判定まで成績を挙げました。
たぶん本番までにはAランク判定にはなったと思います。
でも、一抹の疑問がありました。
それは、
英語で試験を受け、なんで中国語専門なんだ、
という事です。
今もそうですが、日本の外国語教育というのは文法と単語の詰め込み式。
そんな事をやっても本当に使える外国語は身に付かない、当時からそう思っていました。
非常に無駄な時間を費やしているように感じていたある日。
1通のダイレクトメールが家に届きました。
それは、イギリスやアメリカの留学を斡旋する業者からのものでした。
当時、選択肢として大学への進学しか考えていなかった私に、
この「留学」という道は非常に刺激的でした。
そして、それしか道が無いように思いました。
直ぐに父親に「留学したい!」と相談。
父親の答えは、
「骨は拾ってやるから、行って来い。」
でした。
良い父親を持ったものです。
私は、その頃から漢詩を中国語で読んでくれた先生に進学の相談をするようになっていました。
その先生に留学の話をすると、先生は、
「留学すると、生きる事、生活する事に一生懸命になってしまって、基礎がおろそかになってしまう。
遠回りでも良いから、基礎は日本で築いてから留学した方が良いよ。」
とアドバイスをくれました。
そして、戦後すぐに中国語教育を始めたという由緒ある中国語学校、日中学院を紹介してくれました。
そこで2年間中国語という言葉を勉強しなさいと言うのです。
その旨を父に話したところ、それも承諾してくれました。
日中学院は大学ではありません。
短大でもありません。
専門学校です。
なので、基本的にそんなに難しい試験はありません。
というか、東京外国語大学に行こうとしていた私にとってはどれも子供みたいなテストでした。
で、高校3年生の10月には日中学院への進学が決定しました。
しかし悔しいのが学校の対応です。
進学校ですので、職員室の前には「東大○名、早稲田○名」とかいう掲示がありました。
同じように、推薦で進学が決まった生徒の人数がちらほらと書き込まれています。
そこで私一人だけ、「その他 1名」と書かれました。
進学校としては、現役でいきなり専門学校という選択肢はなかったのだと思います。
そして私は心に誓いました。
「学歴は捨てた。でも、実力では絶対に東京外国語大学を出た奴らよりは上に行ってやる。」と。
■ひょんな事からダイエット成功
高校3年生の10月で進学先が決まった私ですが、まだまだ高校生活は続きます。
授業に出なくても良いので、中国語のラジオ講座や関連書籍などを読んではいるのですが、
と言っても一日中勉強をするのも飽きるものです。
というので、体重を落とすことにしました。
柔道では「重い」というのも武器の一つです。
投げにくいというのは有利な点なので、私の体重は83kg級ギリギリの82kgちょっとでコントロールしていました。
しかし、そんなに背が高いわけではない私にとって、83kgというのは重かったのです。
背負い投げなどスピードを必要とする技が出来ずに困っていました。
もう試合の無い私は、別に83kgで体重を維持する必要も無く、またより一層技に磨きをかけるため、体重を落とすことにしました。
丁度そのころ、新入生を対象にした新人戦がありました。
また、階級も以前より細かく分けられ、83kgから81kgになっていました。
3年生である私が参加できるかどうか分かりませんでしたが、
どうせ暇だったので運が良ければ出てやろうと、まずは81kgを目標にダイエットを始めました。
すると、あっという間に79キロに。
あれ?体重を落とすのって簡単だぞ!と驚きました。
という事で、10月から始めたダイエットが12月には76kgに。
そして年末年始もリバウンドすることなく、
3月卒業の頃には73kgになっていました。
半年で約10kgの減量です。
また、女子の反応も変わりました。
今まで相手にもされなかった女子から、
「堀江君、かっこよくなったよね。」と言われるようになりました。
私は別に女性にモテたくてダイエットしたわけではありません。
より一層技の切れを良くし、強くなるためにダイエットしたのです。
心は相変わらずストイックなままでした。
なので、女子のこういう反応を見て、
「男は中身というけど、やっぱり外見も気をつけなくてはいけないよな。」と感じました。
ちなみに当時の写真を今の嫁さんに見せたら、
「もしこのままだったら結婚しなかったと思う...」と言われました。(´д`)
まっ、そういうものです。
しかし、当時の生活を振り返ってみると、同じダイエットは出来ないな....と感じます。
朝7時に起きて、ランニング。
朝食はご飯半膳と海苔のみ。
中国語の勉強を2時間、読書を1時間、昼寝。
昼食も朝食に近く、ご飯半膳と朝の残り。
座禅1時間。
勉強、昼寝。
家事、夕食の買い出し。
夕食も朝食とほぼ同じ。
ランニング、中国語の勉強。
11時前には消灯。
こんな生活を数か月も続けていたのです。
今思えば、よくこんな少ない食事で生活していたなと思いますが、
恐らく座禅で精神を安定させたことと、
昼寝を含めてよく寝ていたことがポイントだったなと思います。
■とにかく毎日中国語
4月から日中学院での生活が始まりました。
日中学院の授業は半日しかありません。
朝9時から、午後の2時くらいまで。
午後は日本語を勉強する中国人の時間です。
私は夕方にコンビニのバイトが入っていましたが、それ以外ずっと中国語の勉強をしていました。
なんせ中国語の勉強が楽しい、楽しい。
そりゃそうです、やりたい事ばかりやっていればいいのですから。
学校の授業ははっきり言って復習みたいなもの。
参考書で先に勉強しており、それで分からない事を先生に聞いているような状態でした。
テスト前にはいわゆるテスト勉強ってやつは必要なく、先生に、
「テスト範囲はほぼ100%分かったから、何か勉強することないですか?」と聞いていたほどです。
実際、テストは毎回99点とか98点。
テストはいい成績を取るためのものではなく、どこか誤解をしていないか、理解が足りないかを確かめるような存在でした。
時々100点でも取ろうものなら却って不安になりました。
だってたまたま運が良くて100点取れたのか、本当に理解していて100点取れたのか分からないからです。
そんなこんなで卒業までの2年間、無遅刻無欠席で成績はオールA。
2年連続で奨学金まで頂きました。
■いよいよ中国の大学へ
中国の大学への編入は非常に簡単です。
中国政府が行っている中国語の試験HSK(TOFULの中国語版だと思ってください)で、7級以上、
つまり日常会話が大丈夫ですよ、というレベルを取れればほぼ入れます。
後は高校の成績表を提出すれば大丈夫なのです。
今は留学生の質が落ちてきたため、各大学で独自の中国語テストや数学のテストをしているようですが、
当時は有りませんでした。
と、大学に入るまでは簡単でしたが、そのあとが大変でした。
当然です。
授業もテストも中国人と同じなのですが、周りは中国人を18年やって来た、
しかもそこそこエリートの子たち。
一方こちらはある程度中国語会話が出来るレベルの外国人。
正直、最初の2年間は先生の言っている話の3割くらいしか分かりませんでした。
一応授業に出るものの、寮に戻ってから辞書を片手に教科書を読む日々が続きました。
■「養生」という概念に出会う
また、生来の病気になりやすい体質+新しい環境+授業に追いつくのがやっとという環境で、
何度か身体を壊しました。
まずは入学直ぐに。
風邪と腹痛を併発し、何も食べられないで、2週間ベッドで過ごしました。
また、他にもウイルスから来る胃炎にかかり、それ以来胃が弱くなりました。
(今はだいぶ良くなりました。)
そんな中、中国の養生という概念に出会いました。
日本では「養生してください。」とか言っても、ただ単に「ゆっくり休んでください」程度の意味しかないと思いますが、
中国では中国医学にのっとったちゃんとした考えがあるのです。
例えばお茶。
日本では中国茶と一塊に呼ばれていますが、お茶にも緑茶、白茶、黄茶、青茶、紅茶、黒茶と6種類に分けられ、それぞれ効能が違います。
また、菊の花を直接お茶として飲んだりもします。
日本的に言えばハーブティという事になるのでしょうか。
食材でも身体を冷やす食材、温める食材と分けられ、その組み合わせなどもいろいろあります。
その考えは昔は日本にもあり(日本は明治前は中国医学を学んでいましたから)、
例えば「秋茄子は嫁に食わすな」という言葉も、
「茄子は身体を冷やす食材だから、秋の冷えやすい頃に嫁に食べさせるときは注意しなくてはならない。」
という意味です。
上記内容のほかに、体内の陰陽、気の陰陽なども独学で勉強。
自分の身体で実験しながら、また、鍼灸の先生との出会いもあり、健康を取り戻します。
今では自分の身体のコントロールの仕方が分かり、滅多に病気にならなくなりました。
■合気道の道場を作る
高校時代、私が柔道一筋だった事はお話しした通りです。
日中学院に通っていた時も、週に2,3回は高校に行って現役生の指導にあたっていました。
そんな私ですから、当然中国でも何か武道をやりたかったわけです。
出来れば柔道を。
しかし、中国では一般的に柔道はあまりやられていません。
オリンピックでは中国も柔道に出ますが、あれは体育学校とか特殊な環境下で育て上げられた選手たち。
普通の大学に柔道部やさらには町道場というものもありませんでした。
ある日、私が取材を手伝った雑誌の定例会があるというので、
雑誌関連の人が集まるのなら何か情報が手に入るかもしれない、と参加しました。
そして、たまたま隣に座った方に、話のネタとして柔道出来るところ知らないかと聞いてみたのです。
するとその方は、丁度北京大学で合気道部を作る手伝いをしている方だったのです。
なんという偶然!
一緒にやりませんか、と誘われ、合気道をすることになりました。
最初は2,3名で、しかも芝生にマットを敷いて稽古をしていました。
朝6時40分からの朝稽古もやっていましたが、朝の太陽の光が暖かい事.....
私が参加した翌月に北京大学の正式なクラブとしての申請が通り、告知が出来るようになると、
人がどんどん集まりだしました。
そしてすぐに屋根つきの場所が借りられるようになり、規模も拡大。
私は日本人として、また、柔道経験者という事もあり、自然と道場の中心を担う事になりました。
とはいえ、合気道はまだまだ初心者。
中国人に教えるためにも、夏休みになると先生のいる福岡へ行き、1週間道場に寝泊まり。
朝、昼、晩と稽古三昧な日々を過ごし、自分のレベルを上げていきました。
かれこれ福岡には10回近く行っていますが、一度も福岡観光をしたことがありません。
そしてこの道場に「吾勝館」と名を付け、今では北京市内で4道場を構えるほどになりました。
その道場で指導をしているのは全員中国人で、私と一緒に稽古をしてきた仲間たちです。
今の年に1回は私の先生と共に北京へ行き、稽古や審査をしています。
■中国人と結婚
2007年、合気道で私と二人三脚で頑張ってきた中国人女性と結婚。
かれこれ知り合ってから6年が経っていました。
当時は私は別の彼女がいて、私の嫁さんも見かけたことがあるそうです。
ただ、長い間一緒に道場の運営をしてきて、お互いに信用していました。
そして私の彼女が帰ってしまい、分かれると、自然と付き合うようになったのです。
ただ、結婚の決め手が悪かったです。
それは、「ビザが欲しいから。」
会社を立ち上げたばかりの私は、そんな設立数か月の会社ではビザが下りなかったのです。
普通に、どうしようか~、と話をしている流れで、
「じゃ、結婚しよう。」となりました。
当時すでに同棲していましたが、いわゆる『プロポーズの言葉』というのも無かったので、
今でも文句を言われます。
■大学を卒業、そして起業
2005年7月、大学を卒業し、すぐに携帯アプリ関連の日本企業の北京支社に入社しました。
大学時代からずっと携帯関連の技術資料を翻訳していたこともあり、
その流れでそのまま入社しました。
しかし、日本本社の合併に伴い、同年12月に北京支社を閉める事になりました。
僅か数か月ですが、私を含め、中国人スタッフも真面目に業務をやっておりました。
こんな形で今までの努力を無駄にするのはもったいない、と、2006年1月に中国人と一緒に会社を設立。
携帯アプリの開発に従事しました。
私は日本や韓国市場などの海外市場の展開をしておりました。
そして翌年2007年末。
真面目な仕事ぶりが評価され、スペインの会社に吸収合併されました。
私はアジア太平洋地域の市場開拓を行っていました。
おかげさまで、英語を使う機会に恵まれました。
そして、業務を通じて日本との繋がりも持てるようになりました。
■妻の妊娠を機に帰国、FXを始める
2008年11月、妻が妊娠しました。
妻の「子育ては安全な日本でしたい」という希望もあり、日本での就職活動を開始。
丁度不景気が始まりだした頃でしたが、運よく以前付き合いのあった会社に入社。
無事、日本での生活が始まりました。
そして2010年1月。
高い失業率、リストラ、倒産、賃金カット、派遣切り.....
日本、いえ、世界の経済システムが大きく変わっている事を目の当たりにし、
またこのまま収入源を給与所得だけに頼るのはリスクがあると感じ、FXを始めました。
最初はちゃんと先生について勉強していましたが、
忙しいサラリーマンでは同じように再現するのは難しく、
誰でも出来るFXトレードを研究しようと、今に至りました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
以上、長くなりましたが、私の生い立ちからFXを始めるに至った経緯です。
年齢も、FX歴もまだ若いですが、誠心誠意、皆さんとお付き合いしていきたいと考えています。
FXだけに限らず、一生お付き合いできる関係を作れればと思っています。
よろしくお願いします。
堀江 昇
管理人の堀江昇と申します。
私は現役サラリーマンとして日中働きながら、朝晩の隙間時間を使ってFXで稼げないかと研究中しております。
関連メルマガも書いているので、是非ともご登録ください。
メルマガ:時間の無いサラリーマンでもできる、稼げるFX通信
http://www.mag2.com/m/0001201090.html
以下、私の自己紹介となります。
名前:堀江 昇
性別:男
血液型:O型
生年月日:1981年(昭和56年)1月14日
星座:やぎ座
同日生まれの有名人:
ルー大柴、石田純一、柴田理恵、新山千春
ちなみに、南極大陸でタローとジローが発見された日でもあります。
占いでは....
よく「カミソリのように切れる」と表現される、頭の回転の早い人です。
他人の行動が歯がゆく感じられ、つい皮肉を言ったりしがち。
人望を得るためにも、ある程度人には寛大になりましょう。
個人的には超寛大だと思います。(゜▽ ゜)
身長:172cm
体重:72kg(ダイエット中)
東京生まれ、沖縄育ち
趣味:パソコン、合気道、FX、嫁、息子と遊ぶこと
仕事:IT営業、投資
学歴:中国人民大学卒
家族:中国人妻、息子
FX歴:2010年1月開始
FXを始めた理由:
今この時代、収入源が1つしかないというのは危険な状態。
一生収入を生み出すスキルとして、FXを使いたいと思ったから。
どんなトレードをしたい?:
日中仕事をしているので、一日中チャートを見ているのは無理。
出来るだけ楽に、安定して利益をあげる仕組みを作る。
利用FX業者:
FXCM
・システムで勝手に動か用。口座はイギリスで開設。
Click証券
・スプレッドが低いから。こちらが本番。
トレード手法:
・シグナル配信
・システムによる自動トレード
・日足だけで判断するデイトレード
・朝、晩に注文する逆張りデイトレード
これから、私の半生をお話ししたします。
長いですが、私がどういう人間か分かって頂けると思います。
お時間のある時にご覧ください。
■奇跡の誕生
1981年1月14日、港区に生まれます。
兄2人、姉1人の4人兄弟の末っ子として生まれました。
母が妊娠中毒だったため、3ヵ月の早産。
体重はわずか1850gでした。
最初の3ヵ月は触れる事も抱く事も出来ず、保育器の中で過ごしたそうです。
今調べてみたら、当時の体重1000gから2000gの未熟児の死亡率は25%だったとの事。
どっこい今は図太く生きています。
感謝感謝。
でも、アトピーとぜんそくはその後も引きずる事になります。
■3歳で沖縄へ
父は公務員をしており、3歳の時に仕事の都合で沖縄へ転勤。
私の記憶の始まりは沖縄からです。
小さい頃は母親か姉にくっついて遊んでいました。
女の子と遊ぶことの方が多く、ゴム弾をしていました。
浦添市にある浦添幼稚園へ通っていましたが、
そこでは喧嘩が強く、ボス的な役割を。
喧嘩になると縄跳びをブンブン振り回す友達に、
「そんなもん当たっても痛くない」と正面からぶつかっていました。(本当は痛かった)
小学校もそのまま付属の浦添小学校へ。
学校の帰りはサトウキビ畑でサトウキビを盗んでいました。
というか、田舎なので、子供が1本、2本、サトウキビを盗んだくらいでは文句は言われません。
子供の力でサトウキビを折るのは相当大変でした。
サトウキビ畑には番犬がいたのですが、友達が番犬の気を引く役、私がサトウキビを折る役をやっていました。
当時、ガチャガチャで「噛みつき婆ちゃん」という消しゴムが売られており、
銀紙を100円玉の大きさ、厚さに作って、不正にガチャガチャを遊んでいました。
なんか盗んでばっかりですね。(゜▽ ゜)
危険な遊びが好きで、爆竹を石ころの隙間に挟んで爆破させる「発破作業」、
爆竹の火薬をほぐしてガチャポンのケースに入れ、爆破させる「ガチャポン爆弾」、
などをしていました。
また、今思っても不思議なのですが、バッタの構造が知りたくて、バッタを解剖。
友達と一緒にバッタを大量虐殺していました。
当時、沖縄では紙芝居屋が存在しており、
近くの公園で紙芝居を上映していました。
紙芝居が来るとおこずかいを持って、三角形の飴を買いに走ったものです。
私にとっては当たり前の幼少期の記憶ですが、どうやら1981年生まれの人間にとってはおかしいらしく、
「お前、昭和何年生まれだよ!」と言われます。
なので、50歳代の人と話が良く合います。
沖縄はちょっと時間のながれが遅いようですね。
生まれつき身体が弱かったですが、
沖縄の自然とワイルドな生活に鍛えられ、
ぜんそくもだいぶ良くなりました。
6歳の時に「ともこ」という子と初恋に落ちます。
バレンタインデーでチョコレートをもらうのですが、
ホワイトデーではホワイトチョコを返していました。
東京に来てキャンディーを返すと知って驚きました。
いや、ホワイトチョコレートの方が絶対に美味しい。
白いし。ホワイトデーにぴったりだと思います。
■7歳で東京へ
3歳から6歳、小学校1年生まで沖縄で過ごし、小学校2年生からは東京に戻ってきました。
東京都北区にある西浮間小学校というところに通います。
ビックリしたのが、言葉が通じない事。
いや、本気で。
私にとって、言葉=沖縄弁だったのです。
同級生にバカにされ、毎日泣いて帰りました。
しかし、そこは子供、いつの間にか標準語をすっかりマスターし、
今では沖縄弁はみじんもわかりません。
ただ、先日、子供の気になって会話を作る機会があり、
語尾に「さー」を連発していました。
他の人から「堀江君、沖縄の人?」と聞かれるまで、それが沖縄弁だとすら知りませんでした。
幼稚園からボスタイプだったので、小学校でも学級委員などを率先してやっていました。
成績はそこそこでしたが、肥満児だったので体育の成績だけはダメでした。
何か運動をしようと放課後にはサッカー、週末には地域の野球チームなどに所属しますが、
運動神経がからっきし悪く、ずっと補欠でした。
ただ、昔から相手の動きを読むのは長けていたので、
サッカーの守備は強かったです。
後に柔道や合気道を始めますが、ボールを追いかけるより、相手の動きを察知する武道向きだったのです。
■そのまま中学校へ
そしてそのまま公立中学校へ。
生活そのものは小学校の頃と何も変わりませんでした。
上手くも無い野球をやり、生徒会長とかやっていました。
成績はそこそこ良く、特に実技系(家庭科、図工、音楽、体育)を入れると、学年5番以内に入っていました。
英語が好きで、英語の成績は良かったと思います。
生徒会長として人の前で話す機会が多く、
しかも何も原稿を用意せずに堂々と話すことが出来ました。
先生もそれを知ってか、朝礼中にいきなり
「堀江君、このあと、あの話して。」
と言ってくることもしばしばでした。
特に何かやりたい事も無かったので、高校は普通科を希望しました。
地域では1,2位を争う進学校、小石川高校を希望。
私の成績ではギリギリだったのですが、
生徒会長やらそういう事をやっていたため、推薦面接で合格。
人当たりも良いのだと思います。
成績学年トップの優等生も一緒に面接を受けたのですが、彼は不合格。
しかし、彼は普通に試験を受けて合格しました。
さすがだと思いました。
たぶん、普通に試験を受けていたら、私は落ちていたでしょう。
高校入学後に知ったのですが、5人に1人は中学の成績がオールAでした。
恐ろしいところに入学したものだと思いました。
生徒会長、野球部、とモテそうな雰囲気ですが、
相変わらずの肥満児で女性の影はみじんもありませんでした。
友達から「結構人気があるみたいだよ。」とかいう話は時々聞きましたが、
実際につきあうとか、彼女が出来るとかいう恋沙汰は有りませんでした。
というか、誰かコクれ!
■母との死別
中学時代の思い出と言えば、母との死別があります。
中学2年生、14歳の時、母は心臓発作で帰らぬ人となりました。
母は夜中に発作で病院に運ばれ、明け方に亡くなったのですが、
当時の様子は今でもはっきりと覚えています。
なぜか妙に冷静だったのが印象に残っています。
明け方に病院へ行ったのですが、
「どうせ泣くのだから、ハンカチくらい持って行こう。」
と考えていたのを覚えています。
しかし、この出来事により、4人兄弟の末っ子の私は、
強引に精神的に独り立ちさせられました。
当時の私はまだ周りから、
「やっぱり末っ子よね。甘えん坊の顔している。」
とよく言われていました。
また、同時に母の偉大さを知った日でもありました。
私の母は家の事は保険とお金の取り扱い以外、
何でも私達兄弟にやらせていました。
掃除、洗濯、食器洗い、料理.....
家事と言われるものは、兄弟で当番制でやっていました。
友達の話を聞いてもそこまで何でもやらせるのは珍しく、
「なんでうちばっかり....」と感じていました。
ところが、母が亡くなって気づきました。
うちは母がいなくても、今まで通り生活できる仕組みになっていたのです。
母がそこまで考えて厳しく私たちを躾けていたとは思えませんが、
結果的には理想の母親だったと思います。
この母の考えは今の私にも引き継がれています。
親は子供と慣れ合うためにいるのじゃない。
自分一人で生きていく力をつけるために、親がいるんだと、そう思います。
■柔道一直線
高校に進学し、やりたかったことは柔道でした。
理由は2つありました。
1つ目は、野球部では運動神経が悪かったため、みんなの足を引っ張って非常にきまづかった事。
チームプレーではなく、個人プレーがしたかったのです。
2つ目は、4人兄弟の末っ子という事もあり、兄弟に喧嘩に勝てなくて悔しい思いをしていた事です。
高校受験の甲斐あって、当時の私は完全に運動不足。
体重は86kgもありました。
しかし、柔道部に入ると1ヵ月足らずで76kgまで落ち、その後、筋トレで83kgまで増えました。
当時は勉強そこそこに柔道ばっかりやっていました。
お昼休みは筋トレをするため、10時半にはお弁当を食べ、お昼休みは筋トレルームへ直行でした。
当時のベンチプレスMAXは120kg。
腕の太さが半端じゃなく、アメリカのホームラン王、マクガイアと呼ばれていました。
当時は本当に強くなることしか興味が無く、いつもピリピリしていました。
クラスメイト曰く「近寄りがたい人だった」との事。
今思えばそう思われても仕方のない事だと思います。
でも、生来から病気がちで、よく風邪をひいていました。
今ならわかるのですが、「弱い」という事に非常にコンプレックスを感じていました。
それは中国で合気道をやるまで続いていました。
■地下鉄で運命の出会い
中学から英語が好きで、漠然と海外で生活したいと思っていました。
そろそろ進路について考えなくてはならない高校2年の秋の事でした。
地下鉄の定期券売り場で、定期の買い方が分からなくて困っている黒人さんと出会いました。
私にとっては生まれて初めて外国人と1対1で話をする機会でした。
つたない英語で、身振り手振り説明。
何とか無事意味が伝わり、外国の人と意志の疎通をすることがこんなにも楽しい物かと感動しました。
そして、大学は外国語学科に行くことに決めました。
でも、問題は何を専攻にするかです。
英語、フランス語、ドイツ語.....一言に「外国語」と言ってもたくさんあります。
そんな話を先生としていたら、担任の先生が、
「その言葉を使って、本当にその国の事を知りたいという国が良いよ。」とアドバイスをくれました。
そう思ったら、アメリカも、ヨーロッパも、興味はあるのですが、あくまで海外旅行程度の興味。
深くまで知りたいとは思いませんでした。
一方、中国。
当時は今の様に有名ではなく、当然WTOも北京オリンピックも決まっていませんでした。
世界の工場、と呼ばれ、ユニクロが中国工場で成功している、程度の知識しかありませんでした。
一方、香港では風水を信じて家のドアを斜めにつける人がいる、などのテレビ番組を見て、
可笑しな国だな、と思っていました。
漢字や文化など日本は中国からたくさん影響を受けているのに、
自分は中国について何も知らないと知り、中国についてもっと知りたいと思うようになりました。
当時、古文の時間に漢詩の授業がありました。
私の高校では中国語の授業は無いのですが、なぜかその漢詩の先生が中国語の話せる先生で、
「漢詩は音が大切です。
これから漢詩を中国語で読むので、皆さん音を楽しんでください。」
と、中国語で漢詩を読んでくれました。
その発音の美しい事!
漠然と中国に興味を持っていた私ですが、その中国語の音の美しさに魅了され、
「よし!中国語をやろう」と決心しました。
■進学校なのに....
当時は中国に注目する人は非常に少なく、大学で中国語学科を設けているところも極限られていました。
ざっと覚えている大学は、
公立では東京外国語大学、大阪外国語大学の2つ。
私立では神戸外国語大学、北九州大学、大東文化大学...あとはちらほら。
私の通っていた高校は進学校だったため、東京外国語大学を目指して試験勉強をしました。
もともと英語が好きだった私は、英語の勉強は苦にならず、
高校3年の夏休みの模擬テストで東京外国語大学Bランク判定まで成績を挙げました。
たぶん本番までにはAランク判定にはなったと思います。
でも、一抹の疑問がありました。
それは、
英語で試験を受け、なんで中国語専門なんだ、
という事です。
今もそうですが、日本の外国語教育というのは文法と単語の詰め込み式。
そんな事をやっても本当に使える外国語は身に付かない、当時からそう思っていました。
非常に無駄な時間を費やしているように感じていたある日。
1通のダイレクトメールが家に届きました。
それは、イギリスやアメリカの留学を斡旋する業者からのものでした。
当時、選択肢として大学への進学しか考えていなかった私に、
この「留学」という道は非常に刺激的でした。
そして、それしか道が無いように思いました。
直ぐに父親に「留学したい!」と相談。
父親の答えは、
「骨は拾ってやるから、行って来い。」
でした。
良い父親を持ったものです。
私は、その頃から漢詩を中国語で読んでくれた先生に進学の相談をするようになっていました。
その先生に留学の話をすると、先生は、
「留学すると、生きる事、生活する事に一生懸命になってしまって、基礎がおろそかになってしまう。
遠回りでも良いから、基礎は日本で築いてから留学した方が良いよ。」
とアドバイスをくれました。
そして、戦後すぐに中国語教育を始めたという由緒ある中国語学校、日中学院を紹介してくれました。
そこで2年間中国語という言葉を勉強しなさいと言うのです。
その旨を父に話したところ、それも承諾してくれました。
日中学院は大学ではありません。
短大でもありません。
専門学校です。
なので、基本的にそんなに難しい試験はありません。
というか、東京外国語大学に行こうとしていた私にとってはどれも子供みたいなテストでした。
で、高校3年生の10月には日中学院への進学が決定しました。
しかし悔しいのが学校の対応です。
進学校ですので、職員室の前には「東大○名、早稲田○名」とかいう掲示がありました。
同じように、推薦で進学が決まった生徒の人数がちらほらと書き込まれています。
そこで私一人だけ、「その他 1名」と書かれました。
進学校としては、現役でいきなり専門学校という選択肢はなかったのだと思います。
そして私は心に誓いました。
「学歴は捨てた。でも、実力では絶対に東京外国語大学を出た奴らよりは上に行ってやる。」と。
■ひょんな事からダイエット成功
高校3年生の10月で進学先が決まった私ですが、まだまだ高校生活は続きます。
授業に出なくても良いので、中国語のラジオ講座や関連書籍などを読んではいるのですが、
と言っても一日中勉強をするのも飽きるものです。
というので、体重を落とすことにしました。
柔道では「重い」というのも武器の一つです。
投げにくいというのは有利な点なので、私の体重は83kg級ギリギリの82kgちょっとでコントロールしていました。
しかし、そんなに背が高いわけではない私にとって、83kgというのは重かったのです。
背負い投げなどスピードを必要とする技が出来ずに困っていました。
もう試合の無い私は、別に83kgで体重を維持する必要も無く、またより一層技に磨きをかけるため、体重を落とすことにしました。
丁度そのころ、新入生を対象にした新人戦がありました。
また、階級も以前より細かく分けられ、83kgから81kgになっていました。
3年生である私が参加できるかどうか分かりませんでしたが、
どうせ暇だったので運が良ければ出てやろうと、まずは81kgを目標にダイエットを始めました。
すると、あっという間に79キロに。
あれ?体重を落とすのって簡単だぞ!と驚きました。
という事で、10月から始めたダイエットが12月には76kgに。
そして年末年始もリバウンドすることなく、
3月卒業の頃には73kgになっていました。
半年で約10kgの減量です。
また、女子の反応も変わりました。
今まで相手にもされなかった女子から、
「堀江君、かっこよくなったよね。」と言われるようになりました。
私は別に女性にモテたくてダイエットしたわけではありません。
より一層技の切れを良くし、強くなるためにダイエットしたのです。
心は相変わらずストイックなままでした。
なので、女子のこういう反応を見て、
「男は中身というけど、やっぱり外見も気をつけなくてはいけないよな。」と感じました。
ちなみに当時の写真を今の嫁さんに見せたら、
「もしこのままだったら結婚しなかったと思う...」と言われました。(´д`)
まっ、そういうものです。
しかし、当時の生活を振り返ってみると、同じダイエットは出来ないな....と感じます。
朝7時に起きて、ランニング。
朝食はご飯半膳と海苔のみ。
中国語の勉強を2時間、読書を1時間、昼寝。
昼食も朝食に近く、ご飯半膳と朝の残り。
座禅1時間。
勉強、昼寝。
家事、夕食の買い出し。
夕食も朝食とほぼ同じ。
ランニング、中国語の勉強。
11時前には消灯。
こんな生活を数か月も続けていたのです。
今思えば、よくこんな少ない食事で生活していたなと思いますが、
恐らく座禅で精神を安定させたことと、
昼寝を含めてよく寝ていたことがポイントだったなと思います。
■とにかく毎日中国語
4月から日中学院での生活が始まりました。
日中学院の授業は半日しかありません。
朝9時から、午後の2時くらいまで。
午後は日本語を勉強する中国人の時間です。
私は夕方にコンビニのバイトが入っていましたが、それ以外ずっと中国語の勉強をしていました。
なんせ中国語の勉強が楽しい、楽しい。
そりゃそうです、やりたい事ばかりやっていればいいのですから。
学校の授業ははっきり言って復習みたいなもの。
参考書で先に勉強しており、それで分からない事を先生に聞いているような状態でした。
テスト前にはいわゆるテスト勉強ってやつは必要なく、先生に、
「テスト範囲はほぼ100%分かったから、何か勉強することないですか?」と聞いていたほどです。
実際、テストは毎回99点とか98点。
テストはいい成績を取るためのものではなく、どこか誤解をしていないか、理解が足りないかを確かめるような存在でした。
時々100点でも取ろうものなら却って不安になりました。
だってたまたま運が良くて100点取れたのか、本当に理解していて100点取れたのか分からないからです。
そんなこんなで卒業までの2年間、無遅刻無欠席で成績はオールA。
2年連続で奨学金まで頂きました。
■いよいよ中国の大学へ
中国の大学への編入は非常に簡単です。
中国政府が行っている中国語の試験HSK(TOFULの中国語版だと思ってください)で、7級以上、
つまり日常会話が大丈夫ですよ、というレベルを取れればほぼ入れます。
後は高校の成績表を提出すれば大丈夫なのです。
今は留学生の質が落ちてきたため、各大学で独自の中国語テストや数学のテストをしているようですが、
当時は有りませんでした。
と、大学に入るまでは簡単でしたが、そのあとが大変でした。
当然です。
授業もテストも中国人と同じなのですが、周りは中国人を18年やって来た、
しかもそこそこエリートの子たち。
一方こちらはある程度中国語会話が出来るレベルの外国人。
正直、最初の2年間は先生の言っている話の3割くらいしか分かりませんでした。
一応授業に出るものの、寮に戻ってから辞書を片手に教科書を読む日々が続きました。
■「養生」という概念に出会う
また、生来の病気になりやすい体質+新しい環境+授業に追いつくのがやっとという環境で、
何度か身体を壊しました。
まずは入学直ぐに。
風邪と腹痛を併発し、何も食べられないで、2週間ベッドで過ごしました。
また、他にもウイルスから来る胃炎にかかり、それ以来胃が弱くなりました。
(今はだいぶ良くなりました。)
そんな中、中国の養生という概念に出会いました。
日本では「養生してください。」とか言っても、ただ単に「ゆっくり休んでください」程度の意味しかないと思いますが、
中国では中国医学にのっとったちゃんとした考えがあるのです。
例えばお茶。
日本では中国茶と一塊に呼ばれていますが、お茶にも緑茶、白茶、黄茶、青茶、紅茶、黒茶と6種類に分けられ、それぞれ効能が違います。
また、菊の花を直接お茶として飲んだりもします。
日本的に言えばハーブティという事になるのでしょうか。
食材でも身体を冷やす食材、温める食材と分けられ、その組み合わせなどもいろいろあります。
その考えは昔は日本にもあり(日本は明治前は中国医学を学んでいましたから)、
例えば「秋茄子は嫁に食わすな」という言葉も、
「茄子は身体を冷やす食材だから、秋の冷えやすい頃に嫁に食べさせるときは注意しなくてはならない。」
という意味です。
上記内容のほかに、体内の陰陽、気の陰陽なども独学で勉強。
自分の身体で実験しながら、また、鍼灸の先生との出会いもあり、健康を取り戻します。
今では自分の身体のコントロールの仕方が分かり、滅多に病気にならなくなりました。
■合気道の道場を作る
高校時代、私が柔道一筋だった事はお話しした通りです。
日中学院に通っていた時も、週に2,3回は高校に行って現役生の指導にあたっていました。
そんな私ですから、当然中国でも何か武道をやりたかったわけです。
出来れば柔道を。
しかし、中国では一般的に柔道はあまりやられていません。
オリンピックでは中国も柔道に出ますが、あれは体育学校とか特殊な環境下で育て上げられた選手たち。
普通の大学に柔道部やさらには町道場というものもありませんでした。
ある日、私が取材を手伝った雑誌の定例会があるというので、
雑誌関連の人が集まるのなら何か情報が手に入るかもしれない、と参加しました。
そして、たまたま隣に座った方に、話のネタとして柔道出来るところ知らないかと聞いてみたのです。
するとその方は、丁度北京大学で合気道部を作る手伝いをしている方だったのです。
なんという偶然!
一緒にやりませんか、と誘われ、合気道をすることになりました。
最初は2,3名で、しかも芝生にマットを敷いて稽古をしていました。
朝6時40分からの朝稽古もやっていましたが、朝の太陽の光が暖かい事.....
私が参加した翌月に北京大学の正式なクラブとしての申請が通り、告知が出来るようになると、
人がどんどん集まりだしました。
そしてすぐに屋根つきの場所が借りられるようになり、規模も拡大。
私は日本人として、また、柔道経験者という事もあり、自然と道場の中心を担う事になりました。
とはいえ、合気道はまだまだ初心者。
中国人に教えるためにも、夏休みになると先生のいる福岡へ行き、1週間道場に寝泊まり。
朝、昼、晩と稽古三昧な日々を過ごし、自分のレベルを上げていきました。
かれこれ福岡には10回近く行っていますが、一度も福岡観光をしたことがありません。
そしてこの道場に「吾勝館」と名を付け、今では北京市内で4道場を構えるほどになりました。
その道場で指導をしているのは全員中国人で、私と一緒に稽古をしてきた仲間たちです。
今の年に1回は私の先生と共に北京へ行き、稽古や審査をしています。
■中国人と結婚
2007年、合気道で私と二人三脚で頑張ってきた中国人女性と結婚。
かれこれ知り合ってから6年が経っていました。
当時は私は別の彼女がいて、私の嫁さんも見かけたことがあるそうです。
ただ、長い間一緒に道場の運営をしてきて、お互いに信用していました。
そして私の彼女が帰ってしまい、分かれると、自然と付き合うようになったのです。
ただ、結婚の決め手が悪かったです。
それは、「ビザが欲しいから。」
会社を立ち上げたばかりの私は、そんな設立数か月の会社ではビザが下りなかったのです。
普通に、どうしようか~、と話をしている流れで、
「じゃ、結婚しよう。」となりました。
当時すでに同棲していましたが、いわゆる『プロポーズの言葉』というのも無かったので、
今でも文句を言われます。
■大学を卒業、そして起業
2005年7月、大学を卒業し、すぐに携帯アプリ関連の日本企業の北京支社に入社しました。
大学時代からずっと携帯関連の技術資料を翻訳していたこともあり、
その流れでそのまま入社しました。
しかし、日本本社の合併に伴い、同年12月に北京支社を閉める事になりました。
僅か数か月ですが、私を含め、中国人スタッフも真面目に業務をやっておりました。
こんな形で今までの努力を無駄にするのはもったいない、と、2006年1月に中国人と一緒に会社を設立。
携帯アプリの開発に従事しました。
私は日本や韓国市場などの海外市場の展開をしておりました。
そして翌年2007年末。
真面目な仕事ぶりが評価され、スペインの会社に吸収合併されました。
私はアジア太平洋地域の市場開拓を行っていました。
おかげさまで、英語を使う機会に恵まれました。
そして、業務を通じて日本との繋がりも持てるようになりました。
■妻の妊娠を機に帰国、FXを始める
2008年11月、妻が妊娠しました。
妻の「子育ては安全な日本でしたい」という希望もあり、日本での就職活動を開始。
丁度不景気が始まりだした頃でしたが、運よく以前付き合いのあった会社に入社。
無事、日本での生活が始まりました。
そして2010年1月。
高い失業率、リストラ、倒産、賃金カット、派遣切り.....
日本、いえ、世界の経済システムが大きく変わっている事を目の当たりにし、
またこのまま収入源を給与所得だけに頼るのはリスクがあると感じ、FXを始めました。
最初はちゃんと先生について勉強していましたが、
忙しいサラリーマンでは同じように再現するのは難しく、
誰でも出来るFXトレードを研究しようと、今に至りました。
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
以上、長くなりましたが、私の生い立ちからFXを始めるに至った経緯です。
年齢も、FX歴もまだ若いですが、誠心誠意、皆さんとお付き合いしていきたいと考えています。
FXだけに限らず、一生お付き合いできる関係を作れればと思っています。
よろしくお願いします。
堀江 昇