言っておくが、足に魚の目ができたわけでもなければ、それらしい物体を身にまとっているわけでもない。



綺麗なものと出会った瞬間、誰かとそれをわかち合えることがなによりの幸せなのだと思う。こぼれ落ちる涙の理由なんて説明する必要だってないのだから。


こだわりすぎるのが私の悪い癖だ。なにかと理由をつけて側に置いておく(これが捨てられず物が増えていく、ということに繋がるのだろう)のに慣れてしまった結果。きっかけがないとなかなか整理もする気になれないものである。

思い出や形に残しておきたい写真にしてもいえることだが、どうやら私は"浸る"という行為(と呼ぶのかは疑問ではあるが)が好きらしい。過去のことに限らず、例えば忙しさに追われている今日だったり、スケジュール帳に書かれた予定をこなしている明日でも同じことだ。

いま、やらなきゃいけないことはなんなのか。布団の上でうなされていた日々にとりあえず手をふって、いま、本当に考えなければいけないことはなんなのか。


涙について、これじゃあ毎回理由がないみたいで納得いかない。どちらかといえば理論的な私(あまり感情的になることはない)には、考えることをやめないことが解決策への近道なのかな。

そういえば私は小さい頃から近道するのが好きだったな。




知らぬ間に喉を痛めたらしい。

薄れていく記憶は綺麗だった。だけどどうしたって現実味がない。いっそのこと、忘れてしまうくらいの素敵な過去の思い出が欲しいなあ。

純粋なこころを私はどこかへ置いてきたらしい。「夢」はむかし好きだった文字のひとつだ。起承転結、私はまだ目覚めたばかりなのだよ。なにもしたくない、はただ言い訳?


運気は変わるか、奇数のピアス。



私はテレビの前で涙を流すことしかできなかった。私はテレビの前で手を合わせ、黙祷を捧げることしかできなかった。

日本を離れていた一年間がいかに大きな年であったか、いまになって実感した。遠く離れた地で日本の心配をしてくださる方がたくさんいたのに、私は上手く答えることもできず、ましてや「よく知らないもん」と自己解決していたのだった。

偽りでも優しさは誰かの支えになるならば、それは悪いことじゃない。本当の優しさだけが正義だなんて、私はあり得ないと思うの。

奇跡はたくさんの積み重ねでてきていると信じたい。なにも出来なかった私にできることは事実を忘れないことだと思った。


いま生きていることに、感謝。