今 一番自分を悩ませている存在

それは イエス キリスト

 

これ以上無視できない

存在になってきた。

 

神は存在するのか

YES か NOか

自分の中で そこを 白黒つけないと

先に進めそうもないと 真剣に向き合った

あの 数十年前と 少し似ている。

 

そうすると 少し怖くなる。

また 同じ繰り返しをしないだろうね・・・と。

 

 

でも  今回は大丈夫。

本当は ある程度 足並みをそろえて

探求してくれる仲間が居た方がいいらしいけど

単独でやっているわけだから

自分の中の芯が ぶれなければ。

 

 

 

ところで。

実は こんなことを思い出していた。

 

小学4年生のとき サビエル記念聖堂に

修学旅行で行ったときのこと。

 

イエスさまのことは 伝記シリーズの本の中で

知っていたと思う。

 

木造の教会の祭壇の真ん中に

十字架があって 

ブロンズ像の等身大に作られているように

見えたけど そのイエスさまをじっと

仰ぎ見ていた 記憶がある。

 

わたしの方が 釘付けになって 離れられなくなって

しまっていた。

 

聖なる・・・そういう表現が一番あっているほど

敬愛のまなざしで 眺めていた。

 

あのときのことを思い出そうとすれば

感覚的にも蘇る。

 

 

ところがだ。

 

サビエル記念聖堂のことを 調べていたら

教会に献身した年の秋

火事で消失したということだった。

 

そうだったっけ?と わたしの記憶はそういう。

 

さらにその辺の記憶を辿ると

青年部の一行で

サビエル公園(記念聖堂一帯)には

何回も行っていたことになる。

 

祈祷会みたいなこともしていた。

 

月初めの 休みの日には

サビエル書店にしか売ってないものがあるので 

そこに行きたいという姉妹に

付いて行ったこともある。

 

公園は更に小高い丘になっていて

焼けたあとの場所も見えたはずだけど。

 

さすがに焼けこげたまま残ってはいなかったので

更地にはなっていたのかもしれないけど

同じ 場所に立っていたはずなのに

小学生のときの あの感動も 思い出も

喪失感さえも・・・・

そのときには あまり湧いてこなかったのだ。

 

そう・・・

 

洗脳というのは どこまでも

人を変えてしまうのだろうと

改めて そう感じた。

 

統一教会では イエスさまは

神の摂理に失敗した者

というレッテルが貼られていたし。

 

既存のキリスト教会に

敵対心みたいなものも 植えつけられた

ような感じもする。

 

(韓国では実際に キリスト教会が

多いので 迫害も多かっただろうし)

 

だから そういう キリスト観に

変えられていったのだろう。

 

 

 

そして 今・・・

わたしは どういう風に 捉えるのか?

 

 

そういえば 妹が ダビンチコードの本を

送ってくれたことがある。

自分が読んで 面白かったので

それを 送ってくれた感じだった。

 

本の評判も知らないし

予備知識も なかっただけに 

分厚い単行本3冊に うっときて 

仕方なく 読み始めたのを覚えている。

 

現役信者だったし

キリスト教のこと あまり興味ないし~

みたいな感覚だったのだろう。

 

しかし すぐに はまってしまった。

 

キリスト観がまた 変わった瞬間だった。

 

 

 

現在では 都市伝説系の話の中に

イエスさまのことが けっこう

出てきたりするけど あの考察路線と

似ている感じがする。

 

でも 誰の話を信じたらいいのか?

迷ってしまう。

 

 

 

やっぱり ケーシーかな。

 

ケーシーが リーディングの中で

本当は誰でもいいんだけど

キリストが最高の お手本だというからには

彼が 受けた キリスト像があるはずだから。

 

また 本を読まないといけないかな・・・。