あれほど 嫌だった自己否定が 

「神の探求」への 興味のスイッチとなって

いったのです。

 

 

 

統一教会に(宗教と知らずに)行くと

いきなり 神から 始まって

面食らいました。

 

神社にお参りなどして 神の存在は

認めていたものの 

どんな存在かなんて 真剣に

考えたことなかったものですから。

 

ちょっと待って!

自分の中で 神という存在について

なにか落ち着くポイントを探さないと

前に進めそうもないので焦りました。

 

なぜか 逃げようとは思いませんでした。

 

そして必死で祈り始めました。

 

まだ 宗教とも言われてないですし

メシアがどうのとかも 切り出されてないですし

もちろん 祈れとも言われてないのに

勝手に 神を求めて祈り始めていたのです。

 

振り返ると あのときほど 純粋に

神を求めて祈ったことは

なかったなあ~と。

 

そのときは 宇宙には意思がある。

 

ソースとか サムシンググレートとか

そういう風に言われているのに近い

イメージを 自分の中で腑に落として

神として 先に進んだわけです。

 

そして 教会に馴染んでいくと

そこの神の像があって それに

洗脳されていくのでした。

 

 

そして やがて 始まったのが

自己否定でした。

 

しかし 今のわたしの言葉で

置き換えると 心のダンシャリ。

 

なにか 自分が抱えていた

重いもの 不要なものが 否定され

落ちていくたびにすっきりしてきて

痛みもあったものの 

自分が光り輝く存在にになっていくような

そんな軽さと 喜びも同時に感じたのです。

 

自分の欲を否定していくことは

清清しいことだと

感じていた事もあったのです。

 

 

しかし 統一教会の自己否定は

長い間信仰をしていると 

個人の事情なんて どうでもよくなり

全体主義になって

教祖 幹部に不都合なことは

神のみこころではないと

完全自己否定とか 謳われながら

方向を変えていくことになります。

 

その頃には 自己否定は 

嫌な響きになり 神のみこころさえも

自分とは関係ない ただの 押し付けの

目標みたいになってきたのです。

 

 

 

 

エドガーケーシーと 光田先生に

出会ったことで

 

信仰の初期に自分なりに

祈り 欲を捨てようとした

あの続きを 体験したいと

今になってそう 感じたのです。

 

そして この30数年間のことも

きっと無駄ではなったということを

確めたいのかもしれません。

 

光田先生の動画を見ていると

一番最初にすることが

自分の欲をなくすこと

自己否定らしいけど

ケーシーは どういう風に それを

説明しているのだろうか?

 

楽しみで仕方なくなりました。

 

本を待っている間に

違うところから

自己否定に関するような内容が

耳に入ってきました。

 

4つの思考という 話でした。

 

え!?思考って 自分がしているわけじゃないの?

そんな風にも感じました。

でも そこから ヒントを得て

どういう風に 自己否定をしていけばいいのか

より 分かったような気がしました。

 

こいうとき

いい流れに乗っているんだろうなと

感じます。