統一教会から 完全に 開放された 2011年は


翼の生えたように 自由になった1年だったと


昨年の末 書いた記憶があります。




さらに もう1年 過ごして リハビリの観点から 言いますと


昨年は 教会生活で 染み付いた癖を 取り払い始めた


出発の年であって


取り除いて 自由になったわけではなかったのだなと


今では思います。




確かに 現役時代は


家に居ても 好きなことをしていても


どこか 見えない檻の中に居るようで


あれも やってない これもやってないと


聞こえない声が 聞こえるようで


それは 外からも 内からも 聞こえていました。



誰かに言われているようで・・・


自分で つぶやいているようで・・・。



そういう 窮屈な生活から 確かに 解放され


あれもしなくていい


これもしなくていいと 思い切り 叫ぶことができる瞬間は


本当に 開放感を 味わうことのできる 時間でした。



でも 振り返ってみると


私達家族は 礼拝の代わりに なにかしら 有意義な何かを


していないと いけないというような 焦りがあったことも


隠せません。


そのときは 一生懸命で あまり 分からなかったのですが。


礼拝に 参加しない代わりに シックよりも


もっと 個人で 家族で 楽しくて 有意義な時間を 過ごさないと


いけないなと 意気込んでいたような 気もします。



だから 今年になって


毎週 日曜日が のんべんだらりんな 休日になって


初めて ああ まだまだ 緊張していたんだなと 思った次第です。



あまりに だらりんとしているので


これでは いかんと 腰を上げようと 動き始めることもあるのですが


これが 普通の 人間って やつではないでしょうか?



やっと 普通の人になって 普通の日曜日を 過ごせるようになったなと


思います。


(本当は まだまだで 来年 また 違うことを 書いているかも?


しれません)



礼拝の 体内時計も 今では 機能しなくなってきました。


以前は あ、礼拝の日だ 準備する時間だ 出発の時間だ


子供礼拝だ 礼拝中の時間だ 礼拝が終わった時間だ


などと 礼拝に参加しなくても


礼拝に参加している人たちのことが 気になっていました。


それも なくなってきて


たまに あ、日曜と言うことは 教会では礼拝があるのね・・・・と


思い出しますが。


思い出すってのが まだ 怪しい部分なのかもしれませんけどね。


これは 月日が流れると もっと なくなってくるのでしょうか?


自分でも 興味の対象でもありますけどね。



ふつうの人間になりつつ ある 1年間でした。


それで 普通になると


それで なにをしようか???と 悩みだすのですが。


本当に どうしようもありませんね。



でも どうしようもないのが


普通でいいのだと 思うことにします。




今年も みなさん ブログを 訪れてくださいまして


ありがとうございました。


それでは よい お年を。