不思議話 その2を 期待してくださった方 裏切るようで すんません。


私の ブログは 順序なく 思いついたままに 書いていますので。



最近 日曜の度に なんとな~~く 感じていたことが


やっと 言葉に 表現できそうな気がしてきて


ここいらで 書いてみます。




2010年は 私にとっては 激動の年だったので


年頭には 「私は 3年後は まだ 教会に居るかもしれないけど


5年後 10年後には 居なくなるかもしれない・・・」という


もや~~っとした 独り言レベルから


夏には 「ここを なんとか 脱出せねば!」に 変化しましたし


年末最後の 日曜日は 「やった!!出れたぞ!」まで 来たのですが。




その 最後の 礼拝だけを 除くと


いつも 日曜は 教会に行くことが あたりまえでした。


それは 内心で どんなに 教会脱出作戦を 練っている状態であっても


礼拝に行くのは 私にとっては 当然の ことだったのです。



思えば それは 20年近く 染み付いた 癖でも あったかもしれません。





だから 2011年は 私にとって 日曜は 不思議な 感覚でした。


私の中で どういう風に 感じていたか 思っていたかというと


”礼拝の時間なのに 私は 礼拝に行かない。” 


”礼拝に行かない方を 選んだ私”


”礼拝には 行かないけれど 教会では 礼拝が 行われている”


という 世界に 住んでいたようです。



だから よく 日曜は 時計を見て 思い出したかのように


あ、礼拝の準備をする 時間だ


礼拝中の 時間だ


礼拝が もう 終わっている頃だ


そういう風に 体内時計?の中では 【礼拝】が まだ 存在していたのです。




ところが 最近は 少し 違ってきていました。


礼拝の存在が どんどん 薄れてきています。



「今日は 日曜 教会では 礼拝が あるわね」と 思い出しても 


子供礼拝の時間だ 大人の礼拝の時間だ


食事をしている時間だの いちいち 教会の礼拝の 中身まで


思い出して 当てはめることは なくなりました。


礼拝という言葉を 思い出しても


心にとどめることなく 言葉だけが さら~~っと 流れていきます。


礼拝 自体を 思い出すことも 少なくなりました。



礼拝の 存在しない 世界の 住人になりつつあるのです。


今では 遠い~~~昔のことのようです。


自分が 毎週礼拝に 出かけていたのが 嘘のようです。



時間がたてば みなさん そうなっていくのであって


私の方が むしろ スローペースで 遠ざかっているのかもしれませんけどね。



礼拝の存在しない世界に 住むって 気持ち良いな~(自由だな)と


改めて感じました。