私が 教会員をしていたときの 思考の システムは 


おおよそ こうだった。



信仰生活 約20年の どこへんを 切って 言うかにようって


やや 違ってくるのであるが・・・・


真ん中 くらいを 基準にしようか。



ちょうど 長男が 生まれて 子育ても 始まり まだまだ 手がかかる時期だった。


家庭を持つまでは 完全に 世の中から 隔離されたような 生活だから


私は 自分の中から 湧いて来る 不信仰的な思い(今で言えば 正直な心)を


カイン的 サタン的だと 否定しながら 妄信することも 可能だった。


しかし 家庭を持つと その見方は 変わった。


今まで 妄信できていたことが すこしづつ 難しくなったのである。


現実が あまりに 大きくなったから?




信仰がなくなると 現実が 大きくみえ始めるなんて 言葉もあったけど


現実が 大きくなると 信仰が 無くなるっていうのが 先かしらね。



とにかく この辺りから 自分の家庭 周りの家庭を 総合して みているうちに


ある疑問が 湧いて来たのだ。



どうして シックは いつまで 経っても 貧しいんだろう?


なぜ 行けば 行くほど 苦しくなるように 見えるんだろう?


いや 見えるだけではないと思う。




夫婦の問題や 親子の問題に 関しては 私は かなり 冷静に


見ていたと思う。


なぜ 夫婦の仲が よくならないんだろう?と 思えば


相手の 育った環境 考え方 癖を 理解しようと 勤めているか?


それを 知ろうと 夫婦の会話を しているだろうか?


現実的な 答えを探した。



子育ての問題だって そうだ。


いろいろな 本を 読めば ヒントは たくさんあった。 





ところが お金のことになると まるっきりだった。


要は 私が お金に関しての 知識が からっきし なかったからかもしれない。



どうして シックは いつまでも 貧しいんだ?という 質問には


以下のような 思考 答えが いつも 出てきた。



10分の1献金は しているのか?


摂理献金はしているのか?


礼拝は 欠かさず 参加しているか?


祈祷しているか?


条件は 立てているか?


朝の 訓読会は しているのか?(み言葉は 読んでいるのか?)


清平に行って 先祖解怨をしているか?


伝道はしているのか?


(これは 1日の10分の1と 言われたこともあって 毎日3時間くらいというのが


私の 中にあった 基準だ)


公金(婦人会費 子女教育費etc) は きちんと 収めているか?


修練会には 参加しているか?



・・・ということなどに 付け加えて


夫 家族の 為に 尽くしているか?もろもろが 入ってくるのである。




そして ここまで 自分の 頭の中で ずるずる 並べながら


次には もう1つの 声が聞こえるのだ。



こんなこと できる人なんて (それを 続けること)


1人も居ないのではないだろうか?



シックでない人は この基準を まず持って知らないし


知っている シックだって こんなこと できる人なんて


まず どこにも 居ないだろう・・・・・。



ゴフボサマや マコトノカテイの方々は 別としても・・・・


と そんなことを 思っていたのだ。



そんな 1人も 救えないような 救いの 基準が 一体何になるのだろう?


一体何に なるのだろう??




会社を 次から 次へと 変える 夫も 夫だったけど


いくら 勤勉に 働いても ちょっとや そっとの 普通の会社では


教会の 献金を クリヤーして 子供の教育 老後に 備える方法は


どこにもないというのだけが 分かっていたので


何かが 足りないために 神さまからの 導きが 得られないのだろうと


決め付けていた。




だから ネットワークビジネスの 話が 教会員の中から 湧いて来たとき


私は ネットワークビジネス嫌いだったのに


それを 許可してしまったのだ。


そういう道しか 解決の道は 無いように 思えたからだ。





祝福を受ける前は 祝福家庭になると 社会が保護してくれる 時代が来ると


思っていた時期がある。


でも みんな 祝福家庭になるわけだから そんなこと ありえないか・・・・などと


自分が祝福を 受けた後には 悟ったけど。



全く持って 私が お金 経済というものには 無知だったのだと思う。



今 思うに いくら 献金が 必要でも


家庭での 収支が 合っていないと いけないと思う。


つまり 入ってくる お金よりも 献金で 出て行く お金の額の方が


大きいというのは 大問題だ。


そして それを 要求するというのも おかしいし


みんな 一律に 求めるのも おかしい。


大体 人の善意で 集めるのが 献金でしょう?


献金自体の 捕らえ方も おかしいですよ。


だから そういう 献金を 求める方が 異常だと 早くに 気付かなくては


いけなかったのに・・・・



そこだけは 私の 信仰生活の 何かが 間違っているからと


そっちの方向に 意識が 向いて




10分の1献金は しているのか?


摂理献金はしているのか?


礼拝は 欠かさず 参加しているか?


・・・・・・・・・・



の 堂々巡りを 繰り返していたのだ。


そして 最後に なぜ 一人も 救えないような 救いの 基準なんだ???となって


思考は 止まった。




それに 対して 考え続けた 結論は こうだ。


神さまは お金は 必要ない。


お金が 必要なのは いつも 人間。


オトウサマは メシアなんかじゃない シックの 幸せなんか 考えていない。




もしも 本当に メシアならば


もう少し 確実に 天国ができる 道を 選んだだろう。


1人で 全て 勝利できなくても


確実に 子女たちに 引き継いで


祝福家庭たちにも その伝統を 引き継いで


その子女たちにも 確実に 引き継がせる方法・・・・



愛のある 生活を まずもって 優先したと思うし。



もし 本当に サタンが居て そのサタンに 勝つ方法 武器があるとしたら


それは 愛でしょう?


今 統一教会の中で 死語になっている 言葉が 「愛」ではないでしょうか?


2010年末までの 私の教会は 実際 そうでしたね。


愛の変わりが 実績?点数。






きょんちゃんの 最近の報告によると


2世達の 修練会にも どこに送れば 何点


そこなら 何点と 点数が 違うそうです。


そこで セウカン教会長は 点数の高いところに 送れと 言ってきたらしいです。



親や 学生 送り迎えの先生など スケジュールや 修練費など


いろいろ 考慮して 決めるべきなのに・・・・


点数で 決めるんですよ。



狂ってますよね。