憎しみの連鎖 | 銀幕と緑のピッチとインクの匂い

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映画は洋画、それも古い映画が大好き。本は外国文学。ドラマは洋物。サッカーは海外チームと代表の応援、という思いっきり偏った嗜好で、天の邪鬼に感想を語ります。但し、脱線話題多し。

 ロンドンでテロ事件が起きました。時はまさにサミットの最中で各国要人が集まる中、となれば原因も何となく察せられるというもの。しかし、標的となったのは何の罪もない一般市民たちなのです。どんな理由があれ、許せるものではありません。


 では、イギリスはどうなのか。アメリカと一緒になって、アフガンやイラクで罪のない人々を殺したではないか、とあちらからの反論が聞こえてきそうです。それについては、弁解の余地がありません。21世紀は、戦争のない世紀になって欲しいと世紀をまたぐ時に思いました。ところが、蓋をあけてみれば9.11に始まり、戦争、また戦争。テロは絶対に許せません。愛する人、罪のない人々の悲惨な最期を目にしてしまった人々は、「報復を!」と叫んでしまいます。もし自分が、被害者側に立ったなら、やはり一緒になって叫んでしまうのではないかと思うのです。血で血を呼ぶ報復に良いことなんてあるわけがない。理屈ではわかっていても、理不尽な被害に遭った思いをどこにぶつけたら良いのでしょう。そして、その報復がまたまた報復を呼びます。今回のテロもあちら側からすれば報復以外の何物でもないでしょう。


 一体、どうしたら良いのでしょう。この次には、また報復がなされるのでしょう。そして、また報復が返ってくる。憎しみは憎しみしか呼びません。どこかで断ち切ることが必要なのですが、それがなかなか出来るものではないのです。世界中の頭脳明晰な方々が、頭を寄せ合って考えていても止められないことを、私なんかが考えたって良い案が出るわけもありません。だけど、犠牲になったその人には家族や知人、友人がいて、その人たちの嘆きの大きさは筆舌に尽くしがたいものです。その報復のために戦闘に出ていく兵士たちにも愛する人がいて、彼らの無事をひたすら祈るしかないでしょう。憎しみの連鎖は、嘆く人々、祈る人々を山のように作り出しているのです。


 昔々、理想に燃えていた頃、一つの国にせめて一人知っている人がいれば、もうその国と戦争なんか出来ないのに、と考えた頃がありました。個人的知り合いという意味ではありません。それはほぼ不可能なことですから。映画スター、テレビスター、歌手、スポーツ選手、政治家だって良いでしょう。バレーボールが大好きだった頃、あの国は誰々の国、と認識することが出来ました。今はサッカーがそれを可能にしてくれています。誰々の国だと思うだけで、ぐーんと親しみが湧いてくるのです。勿論、これは夢話です。争いのない世の中が訪れることをただひたすら願うしかない一庶民の見果てぬ夢のお話です。


 犠牲になった方々に心から哀悼の意を表します。