わたしは人を崇拝して
生きてきたのだなと痛感した


「男で1人で育てて偉い」
「素晴らしいお父さんなんだよ」
「お父さんを尊敬しなさいよ」
「こんな人そうそういないよ」


子供の頃から
様々な大人たちに言われて
「違和感」を感じながらも
無理やり自分に取り込んでいた。


確かに凄いことなんだろうけど、でも
でもさ、



この、でも、の続きを
考えては行けないし
言ってはいけない気がなんとなくしてた。


ずっとモヤモヤで違和感だったのに。



外の顔と
家の中の顔、違うよ


わたし、外の顔のお父さんの方が
好きなんだけど。と。




大人になっていくにつれ
子供の頃から家の事してたわたしを
周囲の友人は凄いことだ、と
褒めてくれた。関心してくれた。


それは最大限の栄養となってた



褒めてもらえる!
って。


そして父親にとっての
いい子やってれば
大人たちにも褒めてもらえる!


関心を持ってくれる!!と


今ならやっと表現に起こせる。


全然言葉に出来なかった思いたち。
自分すら分からなかった違和感
モヤモヤの原因、そして原動力。



でもこの癖は社会になっても
当たり前に抜けなかった。
抜ける必要があるって思わなかったし
概念として捉えてもなかった。



毎回「崇拝する人」つまり
尊敬する人を上に置いて
いいとこまで行くんだけど


結局は相手もおなじ人じゃん?


期待を裏切られたかのような
態度や方向性を途端に変えた時
一気にわたしの心は離れて
それだけじゃなくて大嫌いで
気持ち悪くなる。



これを、定期的に繰り返してる事に
このところで気づいたの。


あれおかしいぞと。


人に対する疑心暗鬼が
続いてて



裏切られる、
いいように使われる


恐れがあったのね



相手はそうしようとしてるかどうか
わからんけどさ


大事なのって
やっぱ自分の信念は
どこから始まって
何故それで終わることを
度々経験してるのか?
ってこと。



尊敬することはいい事だし
キラキラしてて
わたしもそうなりたい!
この人の力になりたい!


そんな純粋な思いだったのが
「過剰な相手への期待」
だったのだと気づいた。


最初に感じるエネルギーが
デカすぎてさ。



でも、やっぱ、
相手も時を同じく生きてる
「ただの人」なわけで。


そんな自分の思った通りの
期待人間なんて
あるわけないじゃないですか。


って所に
いっっまさら?
と思われるような
感じだけど


ダイレクトにやっと
気づいたわけです。



大人たちも大人たちだけどね。
過剰に人のこと持ち上げるなんて
って子供の頃の自分を
思い起こすと思うけど


気づけただけいっか、とも思うわけです。



同時に、自分の中で
相手の望むわたしと言う理想を
裏切っては行けない、も
強くあったんだよね


言われたら言われたで
「あんたはどうなのさ?」
なんだけど、自分の中から
ふっと湧き上がる時に物凄く
怖くなるってたんだな、と。



崇拝すると
その人の意見だけを
強く聞きすぎるくせがあって

自分が信じてるなら
それでいいけどさ


違和感が起こった時は
ちゃんともっと立ち止まろうと
最近は動いてるよ。



みんなみんな違う部分で
素晴らしい長所を持ってる。



あなたもすばらしいし
わたしもすばらしい。




受け取り方だって
月日と共に経験とともに
変化していく。


変化してく自分に
もっと許しを与えます🍀




たくさんの人から
自分が素晴らしい!
って思うもの見聞きして
体験して、豊かにしてけばよいの




相手を見てる時
同時に自分を見てることになる。