【真・皇統紀①】封印された第2代天皇「天津甕星」の謎
【真・日本史】シリーズの続編だが、今回から「天津甕星(アマツミカボシ)」を主人公とした【真・皇統史】をスタートしたい。
「日本という国の成り立ち、歴史、その他色々なことがその時々の為政者によって、隠され改竄されてきたが、もうこの国の魂はそれを許せなくなってきている。」
(宇宙神霊アリオン)
この国の魂とは「日本列島の魂」、すなわち龍神の総大将「国常立尊」及び「スサノオ」である。
そして、封印されたスサノオの後継者「ニギハヤヒ」を指している。
故に、ニギハヤヒの別名を「大国霊(大国魂)」ともいう。
この国の魂を「大和魂」と呼んだりもするが、それはまさに大和の偉大な王「ニギハヤヒの魂」だと言えるだろう。
スメラの証を持つ出雲族の正統な王統の歴史は、初代天皇「ニギハヤヒ」で幕を下ろしたのだ。
全ての元凶は、イスケヨリヒメを「ニギハヤヒの継承者」としたことだった。
末子継承でも女が天皇になれないのなら、次男の「タカクラジ」をニギハヤヒの後継者とするべきだったのだ。
スサノオもクシナダ姫との間に8人の子をもうけ、第5子のニギハヤヒに「十種神宝」を継承しているし、その時点で末子継承の習慣など過去の遺物である。
また、もともと大和国には「三輪王朝」や「葛城王朝」があったが、ニギハヤヒはそれらを併合する形で「大和王権」を築いた。
古代の三輪王朝や葛城王朝では「第2子継承」という風習があったが、ニギハヤヒがそれを採用していたとしたら、必然的に「タカクラジが継承者」なのだ。
だが、日向の参謀長官「タカミムスビ」の政略により、イスケヨリ姫が相続人ということになり、日向のイワレヒコが婿入りして「神武天皇」となり、ニギハヤヒの長男の「ウマシマジ」が仕えた。
ナガスネヒコは日向の「大和乗っ取り計画」に気づいて、イワレヒコの婿入りを大反対したのだろう。
「国譲り」によって、出雲国は日向国に飲み込まれたが、大和国も日向族のイワレヒコ(神武天皇)の即位によって「日向政権」となった。
さらに、日向族は大和にまで乗り込んできて各地の国造となり、出雲族は大和国から追い出されていくことになった。
驚くべきことに、ウマシマジとタカクラジさえも「派遣」という形で大和国から追放されたのだ。
彼ら大和の出雲族は、尾張・美濃・越国を平定開拓し、タカクラジは越国で亡くなった(越後開拓の祖神として「彌彦神社」に祀られている)。
ウマシマジは越国から播磨・丹波を経て石見国(島根県西部)で亡くなり、「物部神社」に祀られているが、そのことは物部神社の社伝に記されている。
さて、タカクラジの子孫を「尾張氏」というが、尾張とは愛知県のことである。
彼らは最終的に愛知県を拠点にしたので「尾張」という地名になったが、タカクラジの死後、越国から尾張に戻ってきた。
その際に、タケミナカタの「信濃王朝」とも接触があったと思われる。
諏訪大社の摂社の1つには、天津甕星の別名である「御佐久田(ミシャクジ)」が配祀されている。
シャクジとは「石神」のことだが、それについては改めて述べることにしよう。
ここで日本史最大のミステリーがある。
出雲国の王だったタケミナカタは、フツヌシとタケミカヅチに追われて信濃に亡命し、信濃王朝を築いた。
それが「国譲り」の真相だと書いたが、『日本書紀』によると、国譲りの前に次のような話がある。
『天神はフツヌシとタケミカヅチを派遣し、葦原中国を平定させようとした。
その時、二神は「天に悪神がいます。名を天津甕星、またの名を天香香背男といいます。
どうか、まずこの神を誅伐し、その後に降って葦原中国を治めさせていただきたい」といった。』
これしか手掛かりがないため、天津甕星(天香香背男)は謎に包まれた神だが、これを手掛かりとして意外な正体が明らかとなった。
ここでいう葦原中国は「出雲」を指し、国譲りを迫る前の話である。
つまり、出雲国に侵攻する前に「天の悪神」を抹殺する必要があると言っているのだ。
「天」とは、どこを指しているのか。
出雲国を「葦原中国」と呼ぶのに対して、日向国を「高天原」と呼ぶ。
また、出雲族を「国津神」と呼ぶのに対して、日向族を「天津神」と呼ぶが、その悪神も名前に「天津」を冠している。
天津甕星(アマツミカボシ)、または天香香背男(アメノカガセオ)という悪神は「日向族」なのだろうか。
いや、フツヌシとタケミカヅチが最大の目の敵とした神である以上、「出雲族」であるはずだ。
広義の意味では、日向族の領地を「高天原」と呼び、一例を挙げると大和国の「葛城王朝」も高天原だった。
葛城王朝は「賀茂氏」の発祥地だが、なぜかそこにタカクラジの子孫たちが住み、「尾張連」と名乗っている。
本来、ニギハヤヒの継承権を持っているのは「タカクラジ」だった。
ということは、タカクラジの相続権を持つ者を「天の悪神」と表現している可能性がある。
「尾張氏系図」や「海部氏系図」を見ると、タカクラジの子は「天村雲命」の1人だけだったようだが、タカクラジの子であることを隠蔽されている神が存在する。
それが「天香香背男」である。
タカクラジが天降る前の名は「天香山命」で、「天香」の二文字を受け継いだ相続人である。
だが、それだけでは天津甕星(天香香背男)が天香山命の子である証拠にはならない。
しかし、尾張大国霊神社の祭神「尾張大国霊神」の正体が、実は「天津甕星」なのだ。
天香香背男は「天背男命(アメノセオ)」とも呼ばれるが、『先代旧事本紀』に「尾張中嶋海部直らの祖」と明記されている。
『先代旧事本紀』は『記紀』から削除されたニギハヤヒや物部氏に関することも書かれている古文書で、全てを鵜飲みにすることはできないが、それなりに信憑性の高い貴重な書物である。
証拠は他にもまだまだあるが、とりあえず話を進めよう。
天津甕星はなぜ「天津」なのか。
甕星は「金星」を意味するので、「天津」とされていると考えれば確かにそうだ。
だが、「天津」と付けられているからには、何か特別な意味が隠されているはずである。
秘書の鬼将軍の研究によると、天津甕星はニギハヤヒの継承者で、「第2代天皇」になるはずだった人物だったという。
父のタカクラジを飛ばして、天津甕星が即位とは腑に落ちないかもしれないが、もともとタカクラジが相続権を持っていて、イスケヨリ姫が生まれた後に天津甕星が生まれたため、末子相続の慣習に従えば天津甕星が「ニギハヤヒ継承者」になるという理論である。
故に、ナガスネヒコがイワレヒコ(神武天皇)を認めなかったのだが、結果的に日向との条約に従い、イワレヒコが第2代天皇になったというわけである。
しかし、本来は「天津甕星」が天皇になるべき人物だったので、賀茂氏の領地でもあった葛城王朝に住まされていたのだろう。
だが、フツヌシとタケミカヅチが、それを許さなかった。
出雲国に侵攻すれば、天津甕星の指揮で大和国の出雲軍が攻めてくる可能性もある。
だから、出雲国に侵攻する前に「天津甕星を抹殺しよう」となったのだと考えられる。
それが前述の『日本書紀』の記述だが、その計画は延期になったようで、出雲の国譲りの後に「天津甕星への侵攻」が始まった。
と言ってもすぐではない。
西暦241年頃、イワレヒコが大和入りして神武天皇となった。
その1年後くらいに、ウマシマジとタカクラジが大和国を追い出されたのだが、その時に彼らの子供たち(物部氏・尾張氏)も一緒に大和国を出ていった。
天津甕星を族長とする尾張氏は、最終的に愛知県に住んで「尾張」という地名になった。
三種の神器の1つ「草薙の剣」が祀られている熱田神宮の宮司家も「尾張氏」である。
草薙の剣はスサノオがヤマタノオロチを退治して手に入れた剣で、その意味に於いては、草薙の剣を持つ者が「スサノオ継承者」である。
「尾張氏系図」や「海部氏系図」では、タカクラジの子は「天村雲命(アメノムラクモ)」となっていると書いたが、草薙の剣の別名「天叢雲剣(アメノムラクモノツルギ)」と同じ名前である。
従って、天村雲命と「天津甕星」は同一人物ということになり、タカクラジの子が1人とされている系図と辻褄が合う。
ここで少し歴史の盲点にメスを入れてみよう。
ニギハヤヒの崩御(西暦220年頃)からイワレヒコの即位(西暦241年頃)まで約21年の間が空いているが、21年間も天皇不在の時期があったとは考えにくい。
ニギハヤヒの即位(西暦181年頃)からイワレヒコの即位(西暦241年頃)までの間は約60年。
イスケヨリ姫が何年に生まれたのかは不明だが、西暦241年にはそこそこ良い歳になっていたはずだ。
もし、ニギハヤヒが西暦183年に第2子のタカクラジを生んでいたとしたら、タカクラジは西暦208年で25歳である。
もしタカクラジが25歳で子供を生んでいたとしたら、ミカボシは西暦241年で33歳である。
話には順序があるので、さっきは「天津甕星は第2代天皇になるはずだった」と書いたが、真相はこうだ。
天津甕星は「第2代天皇」だった!
即ち、ニギハヤヒ直系の皇位継承者だったのだ。
その根拠は枚挙に暇がない。
『記紀』で神武東征の際、ナガスネヒコがイワレヒコに使いを送り、「我らが主君のニギハヤヒは天神の子で、天神の子が2人いるのはおかしいから、あなたは偽物だ」と言った。
ナガスネヒコはニギハヤヒが持っている「天神の子のしるし(十種神宝?)」をイワレヒコに見せ、イワレヒコも自分が持っている「天神の子のしるし(三種の神器?)」を見せた。
それで、どちらも本物だと分かったという。
しかし、それでもナガスネヒコは戦いを止めなかったので、ニギハヤヒガはナガスネヒコを殺したという。
これは随分と捏造された話だが、ニギハヤヒも「天神の子」とされていることに注目。
出雲族(国津神)のニギハヤヒが「天神の子」であるとして扱われているのだ。
ニギハヤヒの継承権を持っていたタカクラジは、天降る前の名前は「天香山命」といった。
タカクラジは大和で生まれ育って大和に住んでいたが、「天降る」とはどういうことなのか。
考えられることは1つ。
ニギハヤヒの第2子で継承権を持って生まれて「天香山命」と名付けられたが、天皇にはならなかったから「高倉下命(タカクラジ)」に改名したのだ。
改名の理由に、わざわざ「天降る」という説明が付けられているということは、「天神の子ニギハヤヒ」の皇位継承者ではないことを示している。
実際に、タカクラジは天皇になっていないので、そのような説明は本来なら不要である。
では、なぜタカクラジが天皇ではなかったことを、そのように強調して説明する必要があるのか。
そこで「天津甕星」という名前に秘密があるのだ。
天津甕星は『古事記』には登場せず、『日本書紀』にだけ登場し、他の古文書や歴史書にも登場せず、両親も出身地も話の舞台の場所も不明である。
だが、前述の通り、天津甕星は「天背男命」と同一人物で、タカクラジの子(尾張氏の祖)だということが分かった。
故に、「天津」を冠する甕星は、ニギハヤヒ直系の継承者にして第2代天皇だったのである。
出雲族の中で、名前に「天」がつくのはたった1人、「天津甕星=天香香背男=天村雲命」だけである。
「天叢雲命」という名前も「スサノオ→ニギハヤヒ→天津甕星」という天皇の系図を表し、天津甕星が「第2代天皇」だったことを否定することの方が難しいのだ。
もう一歩突っ込んだ話をしておこう。
イワレヒコが「天神の子」というのは、アマテラスの子孫であることを意味している。
つまり、ここでいう天神は「太陽神」のことである。
アマテラスは女神としての「太陽神」で、ニギハヤヒは男神としての「太陽神」である。
そうすると、ニギハヤヒは天神の子ではなく、「天神」ということになる。
神武東征は西暦230年代後半で、ニギハヤヒの崩御から20年近くが経っている。
つまり、ニギハヤヒが「天神の子」というのは、実際には「ニギハヤヒの子孫」を指しているのだ。
神武東征で登場する「ニギハヤヒ」は、ニギハヤヒ本人ではないことはまず確かである。
そして、長男のウマシマジでも次男のタカクラジでもないことも確かである。
だとすると、ニギハヤヒの孫「天津甕星」以外には考えられない。
ここで、鬼将軍が非常に興味深い話をしている。
「記紀神話では、ニギハヤヒが初代天皇であったことだけではなく、第一次 大和連合王朝の存在自体がなかったことにされている。
なので、大和侵攻計画とは書けない代わりに、ミカボシを抹殺しようという征討話にすり替えられていたのである。」
第一次 大和連合王朝とは「ニギハヤヒ政権」のことだが、前述の通り、ニギハヤヒの崩御(西暦220年頃)からイワレヒコの即位(西暦241年頃)まで約21年間の空白がある。
21年間も天皇不在だったとは考えにくいので、「天津甕星(ミカボシ)」がニギハヤヒ政権を継承し、第2代天皇になっていたと考えるのが自然だ。
もし、本当に神武東征に登場するニギハヤヒが「天津甕星」で、ストーリーが全くのデタラメではないと良心的に考えると、天津甕星は「イワレヒコの即位」を認めたということになる。
それは、そのような条約が結ばれていたからで、それによって出雲と日向が和合し、今度こそ悲願の「イスラエル王国」の再建になると願って、イワレヒコに皇位を譲ったのだろう。
そうすると、神武天皇(イワレヒコ)は「第3代天皇」だったことになる。
だが、フツヌシとタケミカヅチの「天津甕星抹殺計画」は着々と進行し、神武天皇を陰から操っていた。
まずは出雲族を大和から追い出して、各地を平定開拓させる計画が実行された。
奈良県の東隣は三重県で、その東隣が愛知県である。
三重県に移住した「大和の出雲族」も多くいたと考えられる。
やがて、尾張氏は愛知県を拠点にしたが、奈良県から太平洋側を東進すると、三雲(三重)→三河(愛知)→三ヶ日(静岡)→三島(静岡)→三浦半島(神奈川)という「三」がつく地名が目立っている。
三は「日向族」の象徴数だが、出雲族の領地を征服し、「三」という地名に塗り替えていったそうだ。
そうやって武力抗争によって、東へ東へと出雲族を追いやっていったらしい。
『日本書紀』にはもう1ヶ所、「天津甕星」が登場する場面がある。
「二神(フツヌシとタケミカヅチ)は、ついに邪神や草木、石の類を誅伐し、皆すでに平定した。
唯一従わぬ者は、星神・香香背男(カガセオ)のみとなった。
そこで建葉槌命(タケハヅチ)を派遣して服従させた。
そして二神は天に昇っていかれた。」
元天皇である天津甕星は「出雲族の族長」として、日向族の裏切りを許すことができず、最後まで抵抗し続けたのだろう。
もはや、大和国から追い出して天皇ではなくなった天津甕星を殺す必要はなくなっていたが、大和政権(日向族)に服従させる必要がある。
「誅伐」の計画から「服従」になったのは、そのためだろう。
だが、フツヌシとタケミカヅチはすでに高齢になっていたので、体が思うように動かず、いや、それは分からない(笑)
が、体力がついていかなかったのか、フツヌシの子「建葉槌命(タケハヅチ)」を送り込んだという話である。
二神が天に昇ったというのは、フツヌシとタケミカヅチが大和国に帰還したという意味である。
最終的に、天津甕星は常陸国(茨城県)まで追い詰められ、「大甕神社」に祀られている。
「天香香背男を祀る神社一覧」を見ると、興味深いことが分かる。
関西で天津甕星を祀る神社は8ヶ所あるが、そのうち奈良県に隣接する三重県と和歌山県の4社で「スサノオ」も合祀されている。
大和に近いだけあって、天津甕星が「スサノオの曾孫」だと知られていたのだろう。
スサノオを象徴する「天叢雲剣」と天津甕星の別名「天村雲命」が同名であることから、天津甕星は「スサノオ継承者」という言い方もできる。
日向国は九州王朝だが、宮崎県の西都原を首都として、宮崎県と熊本県が大きな勢力圏だった。
その熊本県の冠神社では、主祭神の阿蘇大神と共に「大年神(ニギハヤヒ)」と「星神(天津甕星)」がセットで合祀されている。
ニギハヤヒも天津甕星も封印された神で、神社で祀られることは少ないが、その二神がセットで合祀されているのは日本で冠神社の一社だけで、やはり天津甕星がニギハヤヒの継承者で「第2代天皇」だったことが知られていた可能性が濃厚だ。
また、尾張氏の拠点だった愛知県の富田神社でも「スサノオ」と「天香香背男命(天津甕星)」が祀られている。
逆に、天津甕星が父「タカクラジ」とセットで祀られている神社は全国に一社もない。
つまり、これは天津甕星が「スサノオとニギハヤヒの継承者」であり、天皇だったことを暗に示していると考えられるのだ。
そして、尾張国の一宮「尾張大国霊神社」の祭神は尾張大国霊神である。
大国霊(大国魂)は「ニギハヤヒ」のことだが、尾張大国霊神の正体は「天津甕星」であり、ニギハヤヒと天津甕星が同一視されているのだ。
実際には同一人物ではないが、天津甕星が「大国霊神」としてニギハヤヒと同一神として扱われているのである。
ニギハヤヒと天津甕星の共通点はそれだけではない。
ニギハヤヒは「蛇」で象徴されるが、天津甕星の別名「天香香背男」も「蛇」を意味する。
この神名は「天背男」に「香香」を足したものだが、古語で「カガ」は蛇のことなのだ。
前述の通り、甕星は「金星」を意味するが、太陽神であるニギハヤヒも実は「金星」でもあるようだ。
「ニギハヤヒ 金星」の検索で出てきた記事↓
![](https://stat.ameba.jp/user_images/20200812/21/tenka-yotarou/7a/1a/j/o0955108014803152510.jpg?caw=800)
アマテラスが「太陽」、ツクヨミが「月」を神格化した神なら、スサノオは「地球」を神格化しただが、実はスサノオも「金星」でもあるのだ。
陰陽道では金星を「太白星」と呼び、「大将軍神」とも呼び、スサノオ信仰と習合した。
また、太白星は徹底的な破壊と殺伐をもたらす祟り神で、「艮の金神」とされた。
もちろん、それは破壊のための破壊ではなく、再生のための破壊(建て直しのための建て替え)である。
スサノオは「牛」であり、蛇で象徴されることはないが、「スサノオ・ニギハヤヒ・天津甕星」には金星という共通点がある。
従って、出雲族は「金星を信仰する部族」であり、それゆえに出雲族は「八光星」をシンボルにしているのだ。
出雲族のシンボルが名前にされているということは、天津甕星は「最後の天皇だった」ということを示しているのではないだろうか。
『聖書』で金星と蛇は「ルシファー」の象徴だが、高天原から追放されたスサノオは堕天使ルシファーなので、その意味でもスサノオは「金星」である。
だが、ここでよく考えていただきたい。
よく考えなくても分かることだが、「甕星」は金星を意味し、「香香」は蛇を意味するということは、「天津甕星(天香香背男)」は金星と蛇を意味する名前である。
『日本神話』でスサノオは高天原から追放されたが、地上でヤマタノオロチを退治した英雄となり、古代日本に実在したスサノオも「出雲国の偉大な王」として手厚く埋葬された。
ニギハヤヒも「大和の偉大な王」として三輪山に手厚く埋葬されている。
スサノオもニギハヤヒも功績は歴史から封殺された埋没神だが、「悪神」いう扱いは受けていない。
そもそも神道には「悪神」の概念がないのだが、『日本神話』で唯一「悪神」として登場するのが「天津神星(天香香背男)」で、その名前は「金星」と「蛇」を意味する。
金星と蛇を象徴する唯一の悪神とは、まさに「ルシファー」そのものではないか。
古代は茨城県も東北地方(艮の方角=鬼門)とされていたが、天津甕星は東へ東へと追いやられ、封印された「鬼」なのだ。
まつろわぬ者(服従しない者)を「鬼」というが、日向政権に最後まで抵抗し、東北で封印された出雲族の族長「天津甕星」は、日本史で唯一の「艮の金神」だと言えるだろう。
それもまた、天津甕星が「スサノオとニギハヤヒの継承者」である証拠である。
天津甕星が「第2代天皇だった」と状況証拠は数多く存在し、それを否定できる材料は1つもないのだ。
他にも諸々の根拠と決定的な証拠が存在するが、文字数の関係で今回はこれで終わり。