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私は、簡単に幸せになることが怖かった。
ほんとうに怖かった。
怖すぎて、自覚すらできなかった。
ノートを書きながら、やっと拾えたくらいの、
小さな小さな声だった。
だから聞いてみた。
「幸せって、なに?」
そしたら返ってきたのは、
“幸せ=退屈・ヒマ・堕落・やることがなくなる” という答え。
自分で書きながら、
え?え?え?
と、思考が止まった。
これまで私は、ぼんやりと「幸せになりたい」と思っていた。
幸せになるために努力しているつもりだった。
だけど、私の中の“幸せの定義”は
ヒマになること=嫌なこと だった。
だから、忙しいほうがいい。
考えているほうが安全。
悩んでいるほうが誠実。
一生懸命な私は、周りから褒められる。
私にとって「考える・悩む」は価値であり、正しさだった。
でもそれは、
不幸になるための努力だった。
ノートに書いて、やっと見えた。
幸せになりたい。変わりたい。
でも、変わりたくない。
その背後にあったのは、
“みんなに申し訳ない” という思い。
「世界は苦しい」という設定も、そこに隠れていた。
(なんて失礼なんだろう、私…)
もし私だけ幸せになってしまったら、
「私も一緒だよ」と言えなくなる。
不幸でいる言い訳ができなくなる。
でもそれって、ただの 幸せマウント じゃない?
えりちゃん、それ嫌われるよ?😂
私は、同情することが優しさだと思っていたんだ。
でもね。
私が本当にやりたいことは、それじゃない。
幸せな場所に立って、そこからみんなと味わうこと。
それが、私のやりたいこと。
だったら、もう遠慮してる場合じゃない。
さっさと幸せにならなきゃ。
「今すぐ勝手に幸せである」って、そういうこと。
目に見える現実が変わっていなくても、
“私は幸せ” と決めてしまう。
ぶつぶつつぶやきながら生きてみる。
じゃあ、幸せって、なに?
幸せとは、感じること。
この肉体が感じるすべてのこと。
悲しみも、怒りも、不安も、喜びも、揺れも。
全部、全部、全部。
“ゆたにえり”という肉体が感じたことは、
源から見れば「感じられて嬉しい!」という喜び。
そして、同情とは「わかるよ」ではない。
完全に同じ気持ちにはなれないのだから。
「そうだったんだね」と理解を示すこと。
それが、寄り添うということ。
前から「幸せとは、感じること」と知っていた。
でもそれは、“源の視点”から見たときの話だった。
やっと腑に落ちた。
そりゃあもう、有無を言わさず
今すぐ幸せでいい。
ぜんぶ全部、そう。
設定は、源の位置から決める。
その決めた設定(在り方)で、
肉体の私をそっと導くだけ。
それが、現実創造。
たったそれだけの、簡単なこと。
この話を、
3/24 と 3/29(オンライン)のお話会でゆっくり分かち合います。
お申込みは 3/5 に開きます。
それぞれ、3席だけご用意しています。
夫と子どもたちと公園で遊んできた^^
今、私は 9才と2才のお母さん。
子どもたちと過ごす時間が、ただただ尊い♡
思い返すと、長男が4〜5才のころ、
私はSNS発信に夢中で、
あのかわいい時期を“ちゃんと味わいきれなかったな”と
少しだけ胸がきゅっとする。
遊ばなかったわけじゃない。
でも、どこかでずっと発信のことを考えていて、
目の前のわが子の感触を
しっかり抱きしめきれていなかった。
「この瞬間を味わう」より
「発信のネタを探す」が優先になっていた時期があった。
煩わしさを感じる自分を責めたりもして、
自己否定のループに入っていたこともある。
あの頃の私は、
パソコンやスマホに向かう時間こそが
“自分の人生の中心”だと勘違いしていたんだと思う。
でも今は、
なんて勘違いしてたんだろう…!
と心から思う。
人生は、画面の向こうじゃなくて、
今ここにある現実の中にある。
かわいいわが子の声。
肌のなめらかさ。
やわらかい髪。
どんどん伸びていく背丈。
まだ小さな手指。
やさしく笑う目尻。
おちゃらけた表情。
「やってみたい」と顔を出す自立心。
どれもこれも、
今しかない豊かさ。
ちゃんと見ていないと、
指の間からすり抜けてしまう。
本当の世界は、
いつだって“ここ”にある。
便利な世の中で、
こうしてみんなと繋がれることには
心から感謝してます🌿
でもそれは、
私がリアルな生活から
たくさんの豊かさや幸せを受け取っているからこそ
成り立っているもの。
そんな私で在れることが、
今は本当にうれしい。




