あお色のたね、きん色のみ -2ページ目

あお色のたね、きん色のみ

A Blue Seed and a Golden Fruit
Subtle, Slight, Trivial Happiness of My Sweet Days
自分を受け入れる。自分を楽しむ。自分をゆるす。自分を愛するの日々。

個人のほんとどうでもいい感慨を

発信するアプリが沢山ある。

元TwitterのX…に変わってから

随分経つけど趣味悪ーって

未だ思う…から先般開設された

Threadまで。


まぁ、おさかんよ。


とにかくすごい。

ちょっと誰かが何か書くと

賛否両論が巻き起こり

その否定の仕方ったら

本当に辛辣で、

お顔が見えないって 

こうも人間の品格を下がるのね、

と、思ってしまう。


そしてさぁ、読解力もないから

その否定もいささか

論点ズレてるわけ。


しかも、書かれてたことは

究極のTMIよ。

それを人間性を否定する言葉で

断罪するのだよね。


今朝は「了解」で揉めていた。

了解は元々は軍隊用語だったのかな?

それが巷にも降りてきて

会社で上司にも使うようになり

それは適切なのか不適切なのかで

沸き立っているわけ。


私がバークレーで聞いた見解は

元々は不適切だったけれど、

言語は変化していくもの。

その性質を考えると

「了解しました」でもいいかな?

に、傾きつつある、ということだった。


そもそも私なんかは国語を

しっかり知らないし、

電子メールが普及してからは

長く働いたこともないし、

働いたとしても米国だったし、

「へぇー、あかんかったんや」と

明後日な感慨を持っていた。


とは言え、自分は

「承知」を使っている。

が、高学歴人間で溢れるうちも

ほぼほぼ理数系なので

「了解です」をたっくさん見る。

書く相手が私だからなんかもしれんが。


そんな訳で、

「どっちゃでもええがなぁ」が

私の意見なんだが、

「なるほど!」と思う解説を読んで

感心したところで

それ以上の気持ちもないし、

反対に「あ?ダメなの?」を見ても

本当に心の中に波風は立たない。


それを、鬼の首でもとったかのように

「知らなかったのか!」と

人間性まで否定するような

辛辣なコメントを読むと

そこまて「了解」が人の内面にまで

染み込むものなのか?と、

空恐ろしくなったりする。


パリオリンピックでも

何かあると審判や選手に対して

本当に心無いバッシングが

浴びせられる。

みんな自分の思い通りにならないと

ダメダメ症候群に罹患してる?

と、思うほどにひどい。


確かにパリオリンピックの

審判達はいずれのスポーツでも

何となく力量不足だな、と思う。

だけど、人間なんてそんなもんさ。

特にAIに頼る昨今、

人の技量はいい加減でも

いいことになりつつあるじゃん。


なのに、人を捌くことにかけては

完璧になろうとするのだ。

それは個人に特化した正義感で

相手の人間性を貶めるような

コメントで、顔も出さずでは

「それ、正義でも何でもないで」と

言いたくなるよねぇ。


こんななら、

こういったアプリの開発は

どこかで頓挫すればいいのに。

そんな風に思うわけ。


風評被害の種子が

まるでタンポポの綿毛みたく

あちこちでゆらゆらしてるわ。


で、Instagramを見てると

ThreadsってInstagramに

紐づいてるから

勝手に色んなのが上がってくる。

なので、タンポポの綿毛めいたものは

もう読まない。


病んでた頃の自分みたい!

と、思わんでもないよなぁ。。。

みんなこれだけ人に厳しいってことは

自分を大切にできてないのかしらん?


と、BBAは明後日な心配をするのさ。

日本、生きにくいもんね。





牛乳石鹸、いい香り。

と思って使うのだが、

どうにもカサカサが止まらない。


その内、次男がアメリカから帰国。

とにかく日本の石鹸が合わない。

あ、私だけの問題じゃないんだ。


何がおかしいんだろう?


あまりにも悩む次男を見かねて

アメリカからいつも使ってたのを

取り寄せてみた。


問題、即解決。


見た目は普通の石鹸なのに

洗い上がりが断然違う!

ふんわり柔らかに洗い上がる。


そんな訳で、

本日また6千円分の石鹸を買った。

全部で18個。

石鹸屋でも始めるんかい?な量だ。


日本にも同名で売ってますがね、

似て非なるものですわ。


息子用に無香料、

私用にバニラ、ココナッツ、

オートミールを買ったわ。

娘にもちょっと分けてあげよう。


ホクホク🫶

ラジオ体操、

10年ぶりくらいにやってみた。


日本の義務教育はずーっと

昭和から動きが少ないみたいで

この春から中学生になった

お孫1号の体育の授業は

ラジオ体操第一で始まったという。


私ん時とおんなじや。


それはまぁ、ええとしてだな、

「ラジオ体操」と聞いて

「久しくやってないなぁー」と

翻訳疲れの時にやってみた。


ラジオ体操の難易度が上がっていた。


ええーーーーーっっっ!!!

マジっすか!?

と、引くぐらい難易度が上がっていたわ。


胸を張る体操、

身体を回す体操、

伸びの体操、

全て退屈なほど簡単だと思ったのが

全てギシギシと節々を攻め立てる。


完全なる運動不足の局地だ。


何十年か前に

バレリーナの方が

バレエ風にきっちりラジオ体操やると

すんごく痩せるという本を出して

ブレークしたのを思い出した。

その時はアメリカにいたし、

「ふぅーん、そんなに?」と

気にもしなかったのに

それをまざまざと思い出して

本気のラジオ体操はすごいんだぜ、

とものすっごく遅ればせながら

思うに至った。


そして、それと同時に、

これまたなんでか知らんけど

日々のストレッチを面倒だと

思う自分の、自分に対する

いい加減さを違う視点から

見るような気がした。


どうしてラジオ体操ごときが

こんなに辛いんだろうか。

それは、ラジオ体操が辛いと

感じるほど同じ姿勢でいるからだ。

歩くほどにも微塵の筋肉を

使いもしない。

それは、様々な筋肉の退化を

意味付けることだ。


顔を洗えば、化粧水、パック、

乳液をつけるじゃないですか。

お風呂上がりには

足がカサカサになるから

必ずボディオイルをつけるし、

髪は乾かすでしょう。

それと同じに

同じ姿勢で凝り固まった身体は

伸ばして、整えねばならんだろう。


そんなことを今更ながらに

考えることになったのだ。

筋トレとか彼方の話で、

今更そこから始めたら

挫折せずとも身体を壊す。

だから、ストレッチから始めるのだ。


我が衰えていく肉体は

若き日のピチピチ感は

嘘のように消え去り、

後にはお孫たちが

「わらび餅みたーい」という

二の腕に代表されるような

萎びてだらしのない脂肪のみが

残ってしまった。


しかし、若い日には当然と思った

私の身体を、今私は

私の資本として

「大切よねぇ」としみじみ思うのだ。

……たとえ、わらび餅になってもやな。


自分な気持ちを知るには

主観に頼るしかない。

でも、時には客観的に見つめて

大事にしてやることもまた、

めっちゃ大切さー、と思うのだ。


ラジオ体操が発想を転がしたわけだ。


なんかさ、

なんでも鵜呑みにしちゃいかんよね。

時々、角度や立ち位置を変えねば。


うむうむ。


今日、Instagramで見つけた

ぶっ飛びきゃわゆい写真を借用。

なんなんこのお座りと、

そして、このアンニュイなお顔。

家族全員に送りつけてやったのだ。笑

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