執着とは。 | あお色のたね、きん色のみ

あお色のたね、きん色のみ

A Blue Seed and a Golden Fruit
Subtle, Slight, Trivial Happiness of My Sweet Days
自分を受け入れる。自分を楽しむ。自分をゆるす。自分を愛するの日々。

生きていると

不可抗力で愛着のあるものから

引き離されることがある。


その後の心の中にあいた穴は

しばらくの間、中々埋まらない。


大人になってから一番の辛い時を

私はカリフォルニアで過ごした。

住み慣れたベイエリアから南下した

海沿いの小さな街に住んだ時のことだ。

歩くとホワイトサンドのビーチに

5分もかからずに出られた。


太平洋のアメリカ沿岸は寒流が流れる。

故に吹き荒ぶシーブリーズは夏でも冷たく、

それに吹かれながら、

フーディのフードをかぶって

俯いて何十分も歩くか、

適当な岩場を見つけて

打ち砕ける白い馬のような波を

ぼんやりと何時間も見たりした。

フードからこぼれた私の長い

巻き毛がくるくると風に舞った。


車で北に上がると、

信じられないくらいに美しい空が

眼下に広がる。

ピーチ色の空に薄いクリームのような雲が

溶けていく先に薄い紫の明日が

もうすでに、

そっと待ち構えているのだ。


どんなに辛くても、

どんなに泣いても、

今、その時のことを思い出すと、

私はそれらの景色を一人で見られてよかった。


そう思うのだ。


涙に滲んだ私の目に

その白い馬が連なるように走る波の形や

ピーチ色の今日の欠片に

紫の明日を忍ばせて広がる大きな空は

今でもその気になれば自由自在に映る。


どんなに辛くても

それらは私さえその気になれば

明日の普遍性を約束してくるものだった。


空っぽなものなのに、

そこに何かとても素晴らしいものが

いっぱい入ってるように期待して、

いつか、必ず空っぽなことに気づいて

捨てることになると分かっているのに、

自分では手放せない。


でも、思い切って手放してしまうと、

惜しくて、大切だったと嘯いて泣く。


それが執着だ。


この頃、心の奥底にある私の本心に

じっと耳を傾けることが多くなった。

沢山の人と、

沢山の空っぽが埋まらない会話をしたな。

連絡が途絶えると、連絡を取らなくちゃ、

それは私の高校生の頃からの役回りだった。


みんな、自分と同じ熱量なんだと信じてた。

そんな頃の話。

でも、熱量は違うんだよ。

それに気づいたのは、

つい最近のこと。


もっと客観的に人間関係を

俯瞰してみて、と自分に思う。

そして、主観的に心の奥底を探る。

答えはある程度簡単に出て、

あれもこれも空っぽだったんだな、

それなのに傷つけた人もいたな。

なんてことを、認める。


もう、いいかな。

手放そう。

一抹の痛みは、別れの時の痛みだ。

執着を引き剥がす時の心の痛みだ。

でも、私さえその気になれば

明日という普遍性を提供してくれる

あの空は今でも1号線の上に広がってるし

波は白い馬をいく頭も

永遠に走らせているだろう。


泣くほどでもない。

それでも、ちょっと痛い。

でも、大丈夫。

ちょっと大人になって、

孤独の、一人でいることの

本当の意味を少し分かったのかしら。

わからんわ。


イッタラの皿が、昨日来た。

執着を捨てると、

きっと何もかもが新しくなる。

新しい皿が日常を彩るように。


あんなに苦しかったのに、

今では記憶という妙薬のおかげで

美しい明日へと渡っていく空の、

そして無限とも、永遠とも言える

白い馬の飛び跳ねるような波だけが

その傷口からふわりと浮き上がる。


そんなもんだ。


執着は執着で

それ以上でも以外でも、

ましてや愛なんかじゃない。


それを知れただけでも良かった。

そうなんだと思う。



オレンジ。今日が終わる。

日本では今日と明日の欠片を

一緒に見れることは少ない。

でも、今日は厚い雲の下から

圧倒的な存在感で

太陽が明日へ帰ろうとしている。