預けている保護猫モーリーを連れて帰ろうかな、と昨日言ったら、
「あたったてぃのモーリーだからダメよ」と言われた。
「私たちのモーリーだから」ダメなんだそうだ。
私たち。
べこに軽い気持ちで「赤ちゃんだから」と言ったら、ものすごい剣幕で怒られた。
「違うっ!」
「あら、じゃあなんだと言うのかしら?」と問うと、
「べこはべこっ!」と返され頭かち割られて、脳みそにシャンパン注がれたような、素敵な気持ちになった。
半年ほど前にウチに来た時、お茶を用意してマグカップを3つ目の前に置いたら、自分のママに1番に選ばせて、私の顔をじっと見たから驚いた。
「それで、グランマなどっちにする?」
ひとつはリサ・ラーソン、もうひとつはコッツウォルズの窯元で買ってきた渋いマグだった。
「グランマが先に選んでいいのよ」と拙い完璧な日本語で言った。
「どちらでも私はいいわ」
「そしたらべこはこっち」
リサ・ラーソンは彼女の前に置かれた。
Wow!!! と思った。
私の色んな時代の節々で、こんな人になりたかった日々があったけれど、私はいつも自分ではない、誰かになろうとしたいのかな。
スパンと自立する女性が言うであろう言葉を3歳で言ってしまう彼女。
「あたったてぃのモーリーだから」。
「あたったてぃの」。
ああ、かわいい。
私たちの。
その概念。様々を含む。
どうか、彼女生きる力がこのまままっすぐに、
出来るだけ遠くまでまっすぐに伸びていきますように。
若い命だ。
粛々と、どこまでも、若い命だ。