生きる力。 | あお色のたね、きん色のみ

あお色のたね、きん色のみ

A Blue Seed and a Golden Fruit
Subtle, Slight, Trivial Happiness of My Sweet Days
自分を受け入れる。自分を楽しむ。自分をゆるす。自分を愛するの日々。

お孫3号のおべこさんが素晴らしい。

預けている保護猫モーリーを連れて帰ろうかな、と昨日言ったら、

「あたったてぃのモーリーだからダメよ」と言われた。
「私たちのモーリーだから」ダメなんだそうだ。

私たち。

べこに軽い気持ちで「赤ちゃんだから」と言ったら、ものすごい剣幕で怒られた。

「違うっ!」
「あら、じゃあなんだと言うのかしら?」と問うと、
「べこはべこっ!」と返され頭かち割られて、脳みそにシャンパン注がれたような、素敵な気持ちになった。

半年ほど前にウチに来た時、お茶を用意してマグカップを3つ目の前に置いたら、自分のママに1番に選ばせて、私の顔をじっと見たから驚いた。
「それで、グランマなどっちにする?」
ひとつはリサ・ラーソン、もうひとつはコッツウォルズの窯元で買ってきた渋いマグだった。
「グランマが先に選んでいいのよ」と拙い完璧な日本語で言った。

「どちらでも私はいいわ」
「そしたらべこはこっち」
リサ・ラーソンは彼女の前に置かれた。

Wow!!! と思った。

私の色んな時代の節々で、こんな人になりたかった日々があったけれど、私はいつも自分ではない、誰かになろうとしたいのかな。
スパンと自立する女性が言うであろう言葉を3歳で言ってしまう彼女。

「あたったてぃのモーリーだから」。

「あたったてぃの」。

ああ、かわいい。

私たちの。

その概念。様々を含む。

どうか、彼女生きる力がこのまままっすぐに、
出来るだけ遠くまでまっすぐに伸びていきますように。

若い命だ。
粛々と、どこまでも、若い命だ。
去年の夏。