最恐怨霊崇徳天皇をお祀りして明治は始まった。


 「焼肉弘商店で焼肉ランチ!」の続きです。

 バスを堀川今出川で降りてすぐ、街中に小さな森が見えました。鳥居に向かって左側の今出川通沿いに由緒が書かれた説明板が立っていました(一番上の写真)。

 白峯神宮の歴史は実はそう古いものではありません。

 そもそもは幕末。時の孝明天皇が最も恐れておられたのは、長州でも外国でも、ましてや幕府勢力でもなく、崇徳天皇だったのです。それもそのはず。崇徳天皇が怨霊となられて以来、天皇はその権力を武士に奪われ、700年もの間かろうじて権威のみを保持していました。途中、スーパーマンのような後醍醐天皇が一瞬政を奪い返しましたが、神の如きかの天才的なお方さえ崇徳天皇の呪いには敵わず、吉野の山に押し込められてしまったのですから、再び権力を得ようとしていた孝明天皇にとってはさぞや脅威だったことでしょう。

 孝明天皇は讃岐に葬られたままの崇徳天皇に京都へお帰りいただき、呪いを解いていただこうと考えられたようです。京都に受け皿となるべき神宮を造営されようとしました。しかし、残念ながら間に合いませんでした。おそらく明治維新の立役者とされた方々が実行者となったのかも知れませんが、天皇は歴史的にはここしかないというタイミングで疑惑の死を遂げられたわけです。

 そのあとを継がれる明治天皇にとっても怨霊は恐怖以外の何ものでもなかったことでしょう。事実、崇徳天皇をここ白峯神宮にお迎えした直後に即位されています。明治天皇の死因についても様々な疑惑はあるものの、59歳で崩御されていることからすれば、それは崇徳天皇とは関係ないものと考えるべきでしょう。だとすれば、ここ白峯神宮において、呪いは解けたのではないでしょうか。一部には、昭和39年に昭和天皇が香川県に勅使を遣わし、800年祭を執り行っていることを根拠に、また、大戦後の民主化で天皇の象徴化が進んだことを根拠に未だ呪いは力を持っているという解釈も行われているようですが。

 神門(上から二番目の写真)をくぐって境内に入ります。天皇をお祀りする「神宮」といえば、明治神宮のような大規模なものを想像してしまいがちですが、飛鳥井家の邸宅跡ということで、正直そんなに広い境内ではありません。直線上には、拝殿を経て本殿(上から三番目の写真)があるのみです。

 なお、ちょうど拝殿奥右側あたりに歌人としても名高い崇徳天皇の歌碑が建っていました(一番下の写真)が、崇徳天皇をお迎えするために建てられた神宮であるにもかかわらず、この地が以前蹴鞠の家元の邸宅であったことから、今やどちらかというとサッカーの神様という扱いのようです。