ば汚れ違うなと感 | 紅塵之外

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 いつの間にか学校の校庭、隅の方へ行くと平面式の交差点があり、そこを六十代半ばくらい、中背で年齢の割に骨も太く肉付きはしっかりと、白髪頭をした初老の男性が通りすぎようとしていた。ボサボサの髪に銀縁眼鏡をかけ、白いチノパンに緑のポロシャツといった風貌、自然にゆったり閉じられた口元と真っ直ぐな視線からリラックスして歩いていることが窺える。
 遠くにいた若い二人連れの男が彼に対しおちょくるように声をかけると、白線の途中であった彼は唐突に足を止め顔をいくらか赤く変化させ、全身に力を込め腹を胴囲2メートルくらいまで異様に膨らませた。その姿は非常に滑稽なものであったにしろ、彼は『どうだ』と言わんばかりにしてやったりのどや顔。一種の挑発、あるいは威嚇行動としても自信あり気であるのだ。
 急に息み過ぎたせいか、歯を四本ほど口内から弾き飛ばし歩道部分に散らばらせるが、そのことを本人は気にもしていない。仕方がない拾ってやろうと手に持ったところ、かなりぬるっとして不快なものだった。やめとけば良かったかと思ったりもしつつ、結局残りの二本の歯も探すしかないかと地面に目をやると、どこからか若い女が駆けつけてきてしゃがみ込み一緒に探すことになった。
 なんの躊躇もせず汚れた歯を手づかみに、私のものと合わせて老人の手に渡す。彼は前歯の抜けたいくらか間の抜けた表情で、それでいて憎らしくなるくらいの満面の笑みを浮かべ去って行った。
 女が走ってきた時に落としたものや、何より眼の前に立つ姿を見て看護婦だと分かった。白衣にナースキャップ、支給品の黒いカーディガン、そこまで美人というわけではなかったが、年齢相応に少女の面影を残した可愛げもありながら、同時に人の生死に向きあう人間特有の控えられた覚悟の顔つきが窺え、キャップにピンでまとめられたショートの黒髪は清潔感もあり、覗ける表情からは自信と誇りがかいま見える。

 やはり看護婦は心も一頻りするとほぼ同時、そう言えが気にならなかったか、ふと疑問に思った旨を遠慮がちに尋ねると慣れているから平気だという。「でも、男性のパンツを洗濯する時と、さっきの男性の歯が似た臭いがするのは何故かしら?」と質問を返される。
 まあ似たようなものだからと濁すが、詳しくは教えない。怪訝に感じた女が自分は別に気にしないから教えてくれと、こちらの顔を真っ直ぐ見据えて迫る。どちらも垢だからというのがその時考えていたことだった。しかし時間の経った恥垢の臭いは強烈でも、ある程度新しい歯垢はそこまでは臭くないことを、後になって思い違いだったと気がついた。

マレーシアに着いたときにはすでに夕方でした。我々の乗ったミニバスはマレーシアのペナン島へ向かう途中でしたが、広い鉄橋と思しき建造物に差し掛かった途端にそのまま動かなくなりました。渋滞のせいだと思っていたらそれは船の一部だったのです。
 前の座席から漏れる、思いも寄らないほど無防備な彼の驚きやら感心のため息。さらに少し興奮も混じった声を聴きながら、他の乗客がそうしていることに気づいた私も左の窓を開け放ったのです。久しぶりに気持ちの良い天然の風、やや粘り気を含んだ甘い汐の香りを顔全体で浴び、周囲に行われる伸びやかな喧騒へ身を委ねているうち、彼と同じ言葉がふと口をついて出たのでした。「こりゃ、あぁすげえ船だなぁ」

 陸に着いたミニバスは港を後に直進しながら市街地に入り、やがて車から二人三人と客は降りて行きました。
 我々は最後のほうまで残っていましたが、途中何かを聞いてくる運転手へ何も応えることをせず、時々小声で彼と話す以外はほとんど窓の外ばかりを見ていたのです。実際のところ、ホテルの位置なども聞かれても反応せず(出来ず)に、やはり運転手の顔も一切見ないで、というか敢えて目も合わせることなくぼーっとした感じに聞き流していたのでした。
 これは別に運転手に意地悪をしていたわけではなく、どこで降りたら良いか全くわからなかったからでして、仕方なしの薄い反応なのです。