公孫淵(こうそんえん)
邪馬台国は畿内?それとも九州?
公孫淵は、公孫康(こうそんこう)の子で公孫恭の甥にあたります。
遼東の太守であった公孫康が死去したときは、まだ幼少だったため叔父の公孫恭が後を継ぎますが成人した
公孫淵は、叔父を脅迫し太守の座を継ぎます。
その後、公孫淵は表では魏に臣従しつつも密かに呉とも通じるなど巧みな外交を見せ呉から燕王に任ぜられ
ますが、心変わりして呉の使者を殺害しその首を魏に差し出します。
しかし、魏からの恩賞に不満だったらしく遼東の地で自立し自ら燕王を称しますが、魏は司馬懿に命じてこれを
討たせ公孫淵は大敗し、篭城しますが遂には降伏します。
ところが、公孫淵は降伏ではなく和議を画策しようとしますが、司馬懿はそれを拒否し公孫淵および一族を斬首し
遼東を支配していた公孫氏は滅亡します。
ところで、卑弥呼、邪馬台国とくれば「魏志倭人伝」を思い出す方もいらっしゃると思います。
実は、「魏志倭人伝」とは正史『三國志』の中の倭人の記述がある部分のことを言っています。
正式な名称は、「『三國志』魏書東夷伝倭人条」というそうです。
なぜこのような事を書くかと言いますと、公孫氏の滅亡が邪馬台国の卑弥呼が魏に使いを派遣することに
つながったという説があるからです。
まだ日本が倭国と言われていたころは中国大陸に貢物をしていましたが、当時の公孫氏が事実上の自立状態
にあり邪馬台国の使者を遼東に留めて、自らへ貢物をさせていたものが、公孫氏の滅亡により通路が通じる
ようになったという話です。
難しい話はさておき、邪馬台国がどこにあったのかはっきりする日が来るのでしょうか?
しかし、謎は謎のままのほうがよかったりするかもしれませんね。