秋分だったようです。

劇的に何かが変わるわけではなく、静かに秋分を迎えました。


以前の私(=💩を溜め込んでいた私)は、いつも劇的に変化すること、好転することを望んでいました。


シンデレラストーリーに憧れていたのだと思います。急に便秘が治るとか、急に内痔核がなくなるとか😆


魔法みたいに、えいっと瞬時に変化する。そういうのを奇跡だと思ってた。


本当の奇跡は、淡々と歩んだ軌跡の結果です。地味に地道にコツコツ便通ケアしたことで、便秘や内痔核は治癒していったのです。


その中で進退極まって内痔核根治手術という魔法のような技を受けましたが、術後ケアは地味に地道に続けました。


いきなりすべてが変わるのではなく、地道な日々の延長に「えっ!私、こんなにもよくなってたんだ!」という奇跡を感じる。


奇跡はそこで終わらない。


身体のめぐりが整い始めたら、日々の生活のめぐりまで整い始めてしまった。


淡々と便通ケア「💩出したい!を捉えて、わたしをトイレに連れていく」をしているだけなんです。


「だけ」とは言いながらも、便意とともに💩するって、意外とスルーされることでもあります。他に気を取られて、💩は後回しにしてしまう。よほど、腹痛があればトイレに駆け込みますが、普段の便意ってそんなに劇的にやって来ない。


あれ、なんか出したい?かな…くらいのマイルドな感覚です。私の場合、肛門が不感症になっていましたから、そんなものなのかもしれません。


他人の便意は感じたことがないのでわからないのですが、私の場合「めちゃめちゃ行きたい!」っていうのって、日々の中でそんなにはやってきません。


だからこそ、「なんか来たかも…」を捉えるのは、難しいかもしれません。


私の場合はとにかくトイレに連れていってみています。小用の際にも、なんとなく肛門に「どう?行く?」って聴いてみる。不発も多いけど、身体が安心します。出せたときは、よかったと毎回喜びます。


こんなこと馬鹿げていると、昔の私なら思ったでしょう。


他に有益なことがあるはずだ。

優先すべきは、💩より評価。

もっと効率よく生きていけよ。


そんなに効率を重視して生きてたのに、今の方がむしろいろいろなことがスムーズにめぐっている。このパラドックスに、本当に驚きました。


私が信じてきた能率効率重視の生き方って、なんだったんだろう。無駄だと切り捨ててきたものの方に実は価値があるのか?


便意を捉えて💩を丁寧に出すことで、こんなにも人生が好転するのか。


私は人生をかけて、地味に地道にめぐりの道を歩んでいこうと思います。便意捉えて💩出せる人は、意外に少ないものです。そのためにすべてがめぐっていないパターンも多いように感じています。


リスクはといえば、「あの人はよくトイレに行く」というレッテルかもしれません。昔の私はそんなレッテル貼られたくなくて、必死にトイレをがまんしていました。


そのリスクを取っても、あまりあるめぐりの効能ではないかと思うのです。💩の人と思われても、めぐりの効果の方が私には魅力です。