今日で肛門科の手術が決まって、
大阪に出発した日からちょうど2ヶ月。
仕上げの時期に来ている。
出すことが怖くて、
食べられなくて、
痛みで寝ることすらできなかった。
あまりの辛さと先の見えなさに、
生きる気力を失っていた。
そのときの私にとって、
生きることは苦しみでしかなかった。
身体を呪った。
今になって、
私は生かされていたんだって気づく。
身体が全力で私に気づかせてくれた。
身体の微細な変化に感覚を研ぎ澄ますこと。
身体の心地よさをじっくりと味わうこと。
呪われた身体だと思い込んでいたのは、
私の頭だった。
目の前で起こるできごとに、
頭ばかりを使いすぎて、
身体を置き去りにしていただけだった。
身体の感覚を取り戻す。
私にとって、それは
便意を取り戻すことだった。
直腸や肛門の状態を感じることだった。
目が覚めて、活動し始めて、
かすかに感じる直腸の動き。
直腸に💩があることが、
あたりまえになった身体は
便意を感じにくい。
直腸💩秘めアスリートとして、
40年強のキャリアがあると自覚している。
出したくなった💩が引っ込んだという
経験を何回も繰り返してきた。
あれは引っ込んだのではなく、
感覚が鈍っただけだと聞いて驚いた。
💩はあるのに、便意が喪失しただけなのだ。
だから、
小さな声を聴き逃さないように、
丁寧に丁寧に感じ取る。
降りてきた感覚をとらえる。
その感じを少しずつつかめてきた。
感じが来ないときは、
初回から坐剤を入れるようにしている。
スルッと出ていくのがうれしい。
最初はちょっといきむが、
息は吐きながら、を意識している。
身体は前傾姿勢がいい。
その時々によって、傾き角度も
感じ取っていく。
で、ここで終わらない。
出し切った感も鈍くなっているのだ。
初回の排泄後に、坐剤を必ず入れる。
出残り便秘を解消するためだ。
直腸をカラにする。
出し切った感があっても、残っている。
ただ、坐剤挿入後の排泄の感じで、
これで終わりかなーーーっていうのは
つかめてきた気がする。
先に直腸に降りてきた方が水分量が少なく、
後からの方が水分量が多めだ。
直腸の水分やいろんな成分を
吸収しやすい性質を知って、腑に落ちる。
座薬が効くのも、直腸の性質を活かしてる。
最近少しずつだが、
出残っている💩が少なくなっているようだ。
とはいえ、毎日違うので、
一喜一憂せず、ケアを続けていく。
ありがたいことに、
優しい💩のお陰で、
自分を傷つけることなく、出し切ってる。
それだけで、完璧!って思う。
私の身体は
未完成だけど
完璧🍑🍑🍑
不遜にも連想してしまった。
私の身体はサグラダ・ファミリアみたい。
未完成だけど、美しい芸術だ。
すでに完璧だ。
それでも、さらなる高みを目指していく。
そこから、さらに頭の中の整理が進む。
「知足(足るを知る)」について、
自分の答えが見つかる。
今ある現状に満足しなさい。
要は「欲しがるな」と。
欲望のある私にとって、
何かしっくりこない。
清貧的な教えだなぁと。
未完成だけど、完璧🍑
がヒントになった。
「私たちは欠けている」という前提を
「私たちは満ちている」という前提に
変えませんか?という問いかけではないか。
「欠乏している」という前提からの欲望は、
穴埋めでしかない。
欠けている私を埋めるために、
どんなに望んで手に入れても
穴の空いた感覚は埋まりっこない。
前提が「欠乏感」だから。
でも、前提を
「私たちは満ちている」にしたら…
もともと満ち足りた存在だと知っていたら…
放たれた望みは
彩りであり、
豊かさであり、
楽しみであり、
無限に広がる弥栄の世界観そのもの。
だって、
宇宙は成長拡大していく流れだから。
未完成ながら、いつだって完璧🍑
日々更新される最高の瞬間を味わっていく。