教員をしながら、学校という世界で
自分を生きられるか試してきて数年経った。

10年くらい前からか、
ちょっとずつちょっとずつ
自分がズレてきてるのはわかっていた。

これはどちらが正しいとか間違ってるとか、
そういう観点の話ではない。
双方にズレがあるということだけだ。

わたしは気づいてしまった。
私のやってることは流れに逆らうことだと。


「学校」という言葉には、
昔から現在に至るまであらゆる人たちの
思いが刻まれている。
確固たる「学校」のイメージが
すでにできあがっているのだ。

それは「先生」や「教員」「教師」という
言葉についてもおんなじだ。
いいも悪いも含めて、
たくさんの人たちのイメージが
深く深く染み込んでいる。
先生はこうあってほしいという
願いや希望も含まれているだろう。

そんな場に身を置きながらの
自分を生きる実験は
ズレが生じてきた時点で降参なのだ。
多くの人が抱くイメージにあらがえば
あらがうほどに、消耗は激しくなる。
ムダな抵抗はやめましょ。


流れに乗るにはどうしたらよいか?


学校で先生をまっとうする。
学校という場にいる以上、それが礼儀だ。

じゃ、学校とズレてしまっているのなら?
その場から身を引くことだ。
ズレを修正することができないのに、
そこに居続けるのは、失礼なことだ。



これは何も学校に限ったことではない。
自分の小さなこだわりで、勘違った抵抗を
引き起こしてはいないだろうか?
特に相手が大きな存在であればあるほど、
消耗が激しいです。





それぞれの道があるんだよなーーー





月曜日から無駄な抵抗をやめてみている。
元気に朝起きられてるので、よかった。




あとは引き際を決めるだけ。