(1)もっと早く戦争を終わらせたいと願っておられた昭和天皇の見込み違い
昭和天皇はなぜもっと早く戦争を終わらせることができなかったのかなど、終戦時のことも田島長官に繰り返し語ったと「拝謁記」に記されています。
昭和27年2月26日の拝謁では、昭和天皇が「実ハ私はもつと早く終戦といふ考を持つてゐたが条約の信義といふ事を私は非常ニ重んじてた為、単独媾和ハせぬと独乙(ドイツ)と一旦条約を結んだ以上之を破るはわるいと思つた為おそくなつた」と語ったほか、日独伊三国同盟を結んだ理由については、日本の軍閥がドイツが勝つことを信じ切っていたためだが、その予想が違ったと述べたと記されています。
近衛や東條はドイツのヒットラーを過信して勝つと信じていた
それで、実際、天皇ももっと早く終戦を迎えたいという願いを持っておられました。そして、日本の当時の政治家たちと同じように同盟国のドイツを過信して、勝利を得るという見込み違いを昭和天皇も持っておられたことが分かります。その見込み違いは、日本に悲惨な結果をもたらしました。
(2)国土が焦土になる結果を招いた日本の降伏が遅くなったことの背後にあった考え方
昭和天皇はポツダム宣言を受け入れる、いわゆる「聖断」を行い、昭和20年8月15日に戦争が終わりましたが、昭和27年3月14日の拝謁では「私ハ実ハ無条件降伏は矢張りいやで、どこかいゝ機会を見て早く平和ニ持つて行きたいと念願し、それには一寸(ちょっと)こちらが勝つたような時ニ其時を見付けたいといふ念もあつた」と語ったと記されています。
しかし、太平洋戦争で日本が勝利をしていたのは、最初の半年くらいで、後はミッドウェー海戦を初めとして、日本は負け続けており、そのような機会は決して訪れませんでした。それで、ドイツを信頼しきっていたことや、いいタイミングで終戦を迎えようという昭和天皇の思惑は、悲惨な結果を招きました。
日本には降伏を良しとする文化はありませんでした。日本は儒教の影響を受けていましたが、儒教の教えには、降伏するのを恥として、死ぬまで戦い続けるのが美しいことだという教えがありました。
それで、やはり、そのような考え方の影響が昭和天皇にもあったのではないかと思います。聖書の中には、敵国が自国に対して攻めてきた場合に、柔軟に早期に和平を図るようにという勧めがあります。
イエスはこのように言われました。「どんな王が,別の王と戦いを交えようとして行進するにあたり,まず座って,二万の軍勢で攻めて来る者に,一万の軍勢で相対することができるかどうかを諮らないでしょうか。事実,それができないなら,その者がまだ遠く離れた所にいる間に,一団の大使を遣わして和平を求めるのです。」(ルカ14:31,32)
このイエスの勧めは経済的にもわたしたちの益を守るものです。第二次世界大戦中に、聖書のキリスト教の影響を受けたヨーロッパ各国は、中立の立場を保つかドイツが侵略して来た時に、早期に降伏しました。そのようにしてヨーロッパ諸国は後になって観光名所となった多くの建物の破壊を免れました。その結果、フランスのパリやイタリアのローマなど、日本のように焼け野原になることを免れ、後になって多くのヨーロッパ諸国は戦火を免れた建造物を呼びものにして観光産業を続けることができました。
また、戦火を免れたことは、富を保全することにつながり、大戦後、ほとんど中立を保った北欧を初めとしてヨーロッパ諸国の経済復興は比較的に早いものでした。
Bundesarchiv, Bild 183-H25217 / CC-BY-SA 3.0
ドイツのナチスの軍勢が攻めてきた時フランスの政権はいち早く和平を講じたので。。。
パリの被害を最低限にとどめ後の観光収入につなげた
Bundesarchiv, Bild 183-H28708 / CC BY-SA 3.0 DE
しかし、近年、ヨーロッパ諸国は、そのような中立政策や平和主義政策を放棄したために、米軍と共に中東などで軍事行動をとり、ISISなどのよるテロ攻撃を受けています。そのため、テロ事件が起きたパリなどは、経済的なダメージを受けました。ユーロモニターによると、2015年11月にパリで起きた事件の影響で、2016年の訪フランス外客数は前年比5%減、8440万人から8000万人に減少。さらに同社暫定データによると、パリへの外客数は4%以上減少したとのことです。
一方、太平洋戦争時に、日本ではどのような考え方が称揚されていたでしょうか。戦時中には、戦果がメディアを通して発表されました。ラジオ発表では、放送前後などに陸軍発表では陸海軍合同の戦勝発表では『敵は幾万』、敗戦発表では『海行かば』といった楽曲が流されたということです。 大本営による戦果発表の前後に流された「敵は幾万」という歌詞の三番は次のようになつています。
「破れて逃(に)ぐるは国(くに)の耻(はじ)
進みて死(し)ぬるは身(み)の誉(ほま)れ
瓦(かわら)となりて残る(のこる)より
玉(たま)となりつつ砕け(くだけ)よや 」
それで、戦争に負けて逃げるのが恥とされ、進んで死ぬことが誉れあることであるという国民教育が組織的に行われました。
また、敗戦発表の時に流された「海行かば」という曲は、次のような意味の歌詞がついています。
「海を行けば、水に漬かった屍となり、山を行けば、草の生す屍となって、大君のお足元にこそ死のう。後ろを振り返ることはしない」
つまり、殺人をして天皇のために戦って、死ぬことが美しいことで反省はしないという意味です。わたしは、正しいことを守るために、命を犠牲にすることは正しいことだと思いますが、天皇を崇拝して殺人をして死ぬのは、正しいことでも、美しいことでもないと思います。
こうした考え方のために、日本人は、日本国民が大勢犠牲になり、国土が焦土になつても、戦闘を続けるべきであるという考えが吹きこまれました。また、戦争のため殺人をして死ぬことが「玉砕」として美化されました。それで、こうした国民教育のために終戦は遅くなりました。
大本営発表の前後に流された歌は降伏を恥とし死ぬまで戦うことが美化されていた
そのためもあり、連合国軍が攻撃してきて、日本人に降伏を勧める場合もありましたが、沖縄や中国のある地域では、降伏するのは恥だと考え方があったので、自決をしたグループも多かったのです。
そして、日本は終戦末期に日本中の諸都市を空爆で焼け野原にされ、原爆を二つ落とされるという経験をすることになりました。これは、日本が柔軟にもっと早く和平を求めていれば避けられていた事でした。または、戦闘で負け始めたならば、早期に降伏する方が、後々になって日本にとって賢明な決定でした。
それで、昭和天皇がもっと早期に降伏をするという決定をくだしておられたなら、日本は、悲惨な結果を刈り取ることを避けられたと思います。そして、富を保全していれば、戦後の復興はもっと早く、さらに経済的な繁栄を維持できるという結果になったと思います。
降伏するのではなく死ぬまで戦うのが美しいという美学のために日本の惨禍ははなはだしいものとなった