神に関する見解の違いがあることは神が全能でないことを示していますか | ヨハネのブログ

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I am Japanese female Christian Masako
Katahira, age 66.

I stay at Kagoshima,Japan after 2-year-stay of Yerevan, Armenia from September 2022.
I love Jehovah God and the Bible.
I explaine Bible
prophecies in my
Yohane no blog.


  私のブログのコメントで、物事を一瞬に理解する能力を与えておきさえすれば、神に関する見解の違いによる戦争も起きないし、今よりずっと平和になるはずだと言った方がいました。

 その人は、平和の神であるとされるエホバが人間に物事を一瞬で分かる能力を与えていないということは、神が全能でなく愛がないことを意味すると主張していました。果たしてそうでしょうか。考えてみましょう。  


 エホバ神は、一世紀のクリスチャンに異言の能力、つまり学んだことのない外国語を話せる能力を与えました。また、一世紀には、クリスチャンに奇跡的な知識を与えられていました。(コリント第一12:10)ですから、神は、望むなら、物事に関する知識を奇跡的に与えることも可能です。しかし、聖書には、そうした奇跡は過ぎ去ると述べられています。(コリント第一13:8)


    ですから、現代において、物事を一瞬で理解することのできる人はいません。正しい理解と判断は、正しい知識に基づいています。そして、ある事柄についての正しい知識は、人間の場合、生得的に与えられていません。それを人間は、時間をかけて習得する必要があります。  


     ある特定の事柄についての生得的に知識を与えられているのは、動物です。聖書は、ある動物が「本能的に賢い」と言っています。(箴言30:24)ですから、例えば、鳥の中には、生まれつき星座の動きや磁場から行くべき方向を判断する能力を与えられていると考えられているものがいます。その鳥は、その生来の知識に基づいて夜間でも、目的地に向かって飛行することができます。


 しかし、エホバ神は、人間に自分より超越した存在を崇拝したいという願いや欲求を人間に与えられました。(詩編95:6)しかし、神は、人間に神がエホバであると生来の知識は、人間の頭の中に植え込まれませんでした。  ですから、全世界の多くの人は、さまざまな宗教を持っており、さまざまな神を崇拝しています。



    例えば、イスラム教徒は、アラーの神を信じています。ヒンズー教徒はビシュヌ神、シバ神その他のもろもろの神を信じています。天体の光体を崇拝する人もいます。(申命記4:19)仏教徒は、仏陀または菩薩また先祖を神だとして崇拝しています。バアル神を崇拝する人々が過去には存在して、その偶像や神殿も残っています。



              Amida Buddha by Jim Epler (buddha)
             仏教徒にとっては仏陀が神かもしれません

       House of Allah (God) by *Muhammad* (allah)
        イスラム教徒はアラーの神を崇拝しています


     La Trimûrti : Brahmâ, Vishnu, Shiva - poster contemporain by fenetresurlinde (hindu)
ヒンズー教徒はビシュヌ神・シバ神・ブラフマ神を崇拝しています

私たちは神が自分の崇拝したい神を自由に選べることを感謝するのではないでしょうか

   

  また、宗教を持っていない人でも、自分を超越しているものを崇拝しています。例えば、神の代わりに仲間の人間の政治指導者を神として崇拝したり、なんらかの政治組織を神として崇拝する人もいます。(啓示13:4)ある人は、科学を神として崇拝します。科学が発達すれば、人類が抱えるすべての問題は解決すると考えて、生涯をかけて科学的な真理を探究する人もいます。


   人は、学んだ知識に基づいていろいろな神を崇拝しています。それが現在の世界の状況です。  しかし、エホバ神は、神についての生来の知識を人間に強制的に与えることはされませんでしたが、ご自分についての知識を一冊の本聖書にまとめて人間に与えられました。


   人は、望めば、聖書を読んでまことの神についての知識を取り入れることができます。  神は、明らかに最初の人間アダムにご自分がアダムを創造し、命を与えたことを口頭で教えました。


 そして、神は、アダムの住まいであるエデンの園において善悪の知識の木の実を食べることのないようにという命令をアダムに与えました。(創世記2:17)これは、神が何が善であり何が悪であるかを決める権利をご自分のものにしていることを示していました。



    アダムはこの神の命令に従うことにより神の支配権を尊重していることを示すことができました。しかし、アダムは、神の支配権から独立する道を選びました。(創世記3:6)アダムはエホバを神としては退け、サタンに従ってサタンを神としました。しかし、神の支配権を尊重していれば、人間の間には、争いは生じなかったはずです。 それで、アダムの子孫は、それぞれ自分が望む者を神として崇拝しています。



     そのため、世界はいろいろな神を崇拝する人々のために分裂しています。それで、神はご自分が神であることを人類の先祖に教え、また、人類が互いに平和を保つための教訓も与えられて、人類が平和を保てる備えをされました。ですから、神に落ち度はありません。  


      そして、後になって神はご自分が霊者たちである神の子たちも、全宇宙も創造されたことを示す聖書を人間に与えました。ですから、人々は、聖書を読めば、エホバ神が神であることを知ることができました。


     ですから、神は、人間の脳に神がエホバであるという知識を植え付けませんでしたが、創造者がご自分であることを人間が知ることができるようにされました。  


  聖書は世界に幾十億冊も頒布されているので、望む人は、聖書の神エホバについて知ることができます。とりわけ、聖書の預言は、まことの神がどなたであるかを示します。聖書の預言が成就するのを見て人々は、まことの神が聖書の神エホバであることを知ることができます。



         Brief by Brett Jordan (bible34)
エホバ神はご自分について知識を取り入れることができるように聖書を備えました
神が全能の愛ある神であることを示しています



    神は、人間の場合、生来の知識に基づいて行動する範囲を狭くされました。ですから、人間は自分が崇拝したい神を自由に選ぶことができます。また、学んだ知識に基づいて自発的にエホバ神を崇拝することができます。私たちは、自分が生来動物のように神を自動的に崇拝するようになっていないこと、自由選択の余地があることを感謝するのではないでしょうか。(申命記30:19)  


    私たちは、神について学び、理性に基づいてエホバ神を崇拝することができます。このことは、エホバ神が人間の自由意志を尊重される愛の神であることを示しています。  また、神は、人間が永遠に神について学び続けることができるようにされました。(ヨハネ17:3)



    人間は、永遠に動き続ける機械を作ることはできません。有限の人間が神について永遠に学び続け永遠に生き続けることができるということは、神が愛ある全能の神であることを示しています。