「あなたはアハブがわたしのゆえにへりくだったのを見たか。彼がわたしのためにへりくだったので、わたしは彼の時代には災いをもたらさない。彼の子の時代に、その家に災いをもたらすであろう。」(列王第一21:29)
自分は、どうしようもなくエホバの目に悪いと感じることがあるかもしれません。エホバの前に罪を犯してしまっているかもしれません。その場合は、邪悪な行いを裁かれるというエホバの言葉を聞いた後、自分の行いを後悔したり、エホバの憐れみを求めたりするのは、無駄であるように感じるかもしれません。しかし、決してそういうことはありません。
邪悪なイスラエルの王アハブがへりくだった時、エホバは彼に対してさえある程度憐れみを示されました。アハブにどんなことがあったのか調べてみましょう。
イスラエルの王アハブは、自分の宮殿のそばにあったエズレル人ナボテのぶどう園を自分の菜園にしたいと思いました。アハブはナボテにぶどう園を譲ってくれるように頼みましたが、ナボテは、世襲所有地を譲ろうとはしませんでした。なぜなら、エホバはモーセの律法の中で家族の相続地を恒久的に売り渡すことを禁じておられたからです。(列王第一 21:1‐3。 レビ 25:23)ナボテは、モーセの律法に従っていました。
しかし,王妃イゼベルは、ナボテの都市の人々にアハブの名で手紙を書き、二人の証人にナボテが神と王を冒とくしたという偽りの告発をさせ、ナボテが石打にされるように手配しました。(列王第一21:8~10)そのため、ナボテとその子らは死に処されました。(列王第二9:26)アハブは、イゼベルがエズレル人ナボテが殺されるように手配するのを許し、ナボテの世襲所有地であるぶどう園を不正な手段で奪いました。
聖書は「例外なく、だれひとりとして、身を売ってエホバの目に悪いことを行なったアハブのような者はいなかった」と記録していて、アハブの行なったことがいかに邪悪であったかということを強調しています。(列王第一21:25)
エリヤはそのぶどう園でアハブに会い、アハブの血は犬がナボテの血をなめたその同じ場所で犬になめ尽くされることになるとアハブに告げます。エリヤはまた,、犬がイゼベルを食らい尽くすことを告げ知らせます。エリヤはまた、エホバはアハブの子孫を一掃し、断ち滅ぼすことを告げます。(列王第一 21:19‐26)
ところが、アハブはエリヤから裁きの言葉を聞くや、自分の衣を引き裂き、粗布を身にまとい、断食を続け、粗布を着て横たわり、しょう然と歩いていたと記録されています。アハブはエリヤを通して与えられたエホバの裁きの言葉を聞いて恐れ悲しみへりくだりました。(列王第一21:27)
アハブのへりくだりは、アハブが非常に邪悪なことを行なった後だったので、無駄だったでしょうか。そういうことはありませんでした。アハブがへりくだった時、エホバの言葉がエリヤに臨みました。「あなたはアハブがわたしのゆえにへりくだったのを見たか。彼がわたしのためにへりくだったので、わたしは彼の時代には災いをもたらさない。彼の子の時代に、その家に災いをもたらすであろう。」(列王第一21:29)
それで、アハブは、それから三年後に命を失いますが、エホバが言われた通り、アハブは生きている間、自分の家族や親族が全滅するのを見ることはありませんでした。それで、アハブは、エホバの裁きの言葉を聞いた時に、へりくだったので、その裁きが執行される時に関してある程度憐れみを示されました。
また、邪悪なアハブでありますが、人々がサマリヤでアハブを葬ったということからすると、アハブはおそらく復活するのでしょう。(列王第一22:37)アハブが自分に対する裁きの言葉を聞いてへりくだったことは、復活のある新しい事物の体制で無駄になることはないのでしょう。
私たちは神の律法にはなはだしく違反することがあるかもしれません。そのような場合に、邪悪な者に対するエホバの裁きの言葉を聖書から読んで、自分の振る舞いを後悔して、エホバに祈ることもあるかもしれません。そのようにしても、遅いでしょうか。そうでないかもしれません。
エホバは邪悪なアハブに対してさえ、憐れみを示されました。ですから、エホバは神の律法に違反してしまった私たちに憐れみを示すことは決してないとは誰も言うことはできません。神の律法からどんなに離れてしまったと思ったとしても、エホバの前にへりくだることは、無駄にならないかもしれません。
私たちは神の律法に関してどんな状況になったとしても、どんなエホバの裁きの言葉を聞いたとしても、エホバに祈り、エホバの前にへりくだることを忘れないようにしましょう。