こんばんは、根本 沙璃(さり)です。

以前、自律性を養うための
あるトレーニングを受けたときのことです。


「永遠とは何か?」

という、めっちゃ抽象的な
お題を与えられました(笑)


このお題について、ペアになった人と
それぞれが自由に、思いのままに
分かち合うワークをしました。



そのときの私なりに考えた末
出てきた言葉が



「永遠のためには努力が必要」
というものでした。


当時の私にとって、永遠の対象が
「人間関係」であったから
自分なりにそう考えたんですね。





この対象が、寿命とか
細胞的な若さとかになると
話は別になるかもしれませんが

 


基本的には仕事、もっというと天職とか
自分が大切にしている学問とか
価値観なども含まれると思います。



さて、話を人間関係に戻します。

仏教用語に「愛別離苦(あいべつりく)」
という言葉があります。



これは、いわゆる「会うは別れの始まり」
ということで、どんなに親しい、
愛おしい人とめぐり合っても、
必ず別れる時がくる。



この別れの苦しみは生きている以上
避けて通ることの出来ないものだ
ということです。



きっと、その悲しみを受け入れ
乗り越えた先に見えてくるもの
得られるものがあるのでしょう。


大切な人ほど、つながってたいですし
厄介な相手ほど、早くおさらば
したいものですがね(笑)



どうしても、厄介だからといって
簡単に離れずに、

 

あえてその人との
関係性を改善したい、する!
と奮起することがありますね。


また、ラブラブだったはずの恋人
あるいは、パートナーとの間に
溝が出来て、心が通わない。

そんな時に回復させようと
努力することもあります。


この努力は、とても大切だし
素晴らしいことです。



そのことで、自分の器が広がったり
相手との関係性がより
深まったりしますね。



しかし、ある一線を越えると
それは努力ではなく


執着である可能性も考えられます。


いや、本当~は
心のどこかでわかっている。


でも、それを認めることを
避けることがあります。


さて、もし、もしもあなたが今
ある人との関係性において


何か抱えているものがあるとしたら
それは努力で対処していますか?

それとも執着ですか?


努力なのか、執着なのかを
見極めるポイントとして


「~なければならない」という
言葉がありそうです。


・和解しなければならない
・つながっていなければならない
・受け入れなければならない
・私はあの人でなければならない
・あの人は、私でなければならない


このような思いを強く
持っているとしたら、
執着の可能性があります。


執着し続けるのも、執着からいったん
離れてみるのも、自由に選べます(^^


 

 

執着も、一つの滞りなので、邪気になります。
解放して、心の自由を取り戻しましょう。