困ったことに(?)、子どもは親のことをよく見ている。
ありゃりゃと思う子どもの姿に、自分が被って見えることが多い。
もちろん、良いところだってたくさんマネをしているのだが、それでも悪いところにばかり目がいってしまう。
虐待の連鎖なども、これとよく似た言葉なんだろう。
いつもいつも書いているが、小さければ小さいほど子どもにとって親は神である。
その上、小さい頃に身についたものは、思い出として思い浮かぶ場所にはなく、子どもの中の深くて見えない場所に眠っている。
それゆえなかなか訂正ができない。
これも一種の教育の成果なのだ。
子どもを観ながら親が自分の中の好ましくない箇所をいっしょに直していければ良いのにとつい思う。
とはいえ、親にとっても深い場所に眠る過去の教育の成果なのでなかなか難しい。
(いつもいつも例に出してしまうので、ちょっと申し訳ないのだが、)
小さい頃から『私も歌が下手だけど、あなたも音痴ね』などと言われ続けた主人は大きくなっても人前で歌を歌うことをほとんどしなかった。
子ども達が大きくなるにつけ、間違っていようがいまいがお構いなしにしょっちゅう口ずさむ家族につられて、ちょっとずつ口ずさむ姿に、別に音楽が嫌いって言う訳ではなかったのだ、とびっくりした。
おせじにも歌がうまいとは言えない息子に対して、娘にもそのことは絶対に口に出してはいけないと言い聞かせてきたが、おとなになってちゃんと歌が歌える息子を見るたびにやっぱりそれでよかったのだと感じている。
機能的な問題、経験値の問題で、音楽も運動も小さい頃の状態がいつまでも続くわけではない。
コンプレックスを持って、もう歌わないとか走らないなどと思うより、楽しんで続ける方が良いにきまっている。
子どもはいつも見ています。
小さな一言でも神の言葉は大きい言葉として受け止められることを忘れないでください。
親はなにげない様子でおおいに意識して子どもに接して欲しいと思っています。
子どもの前に進む力は、親からもらう安心感でもあるのだから。