教授を充たしているものが 「愛する人間との精神的な対話」だったこと
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その状況で精神性の高さと愛を失わずにいたのは
どんな在り方があったのかを知ることができるのでは…
と この年末 家族の帰省を迎える支度をしている合間に
読んでいる本です
Wikipediaには
「人生の目的を明確にし、その実現に向けて没頭する心理療法を紹介している」
とあります
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70ページ近くにわたる強制収容所の全貌の長い解説を読み終えて
フランクル教授の体験に入っています
解説は上下二段のかなり細かい文字でしたが
フランクル教授の体験は 二段でもなく文字も大きくなり
読むスピードがあがります
体験の記述の半分くらいのところなのですが
悲惨な外的状態のなかで教授が自分を充たすためにしていたこととして
愛する人間の精神的な像を愛しつつみつめることがあったようです
教授の愛する人間とは 「彼女=私の妻」
教授が奥さまと精神的な対話をされていたそのとき
すでに奥さまは亡くなられていて
教授はそれを知らなかったし知ることもできなかったそうですが
そのときにその事実を知っていたとしても
「私はそれにかまわずに今と全く同様に、この愛する勅使に心から身を捧げえたであろう。
そしてこの精神的な対話は今と全く同じように力強く、
かつ満足させるものであっただろう。…」
表現が難しくて理解できにくいところもあるのですが
教授を充たしているものが 「愛する人間との精神的な対話」だったこと
奥さまが生きているかどうかは 教授を充たすことにかまわなかった
ここまで読み進めて 私の中に響いていることです
生きているかどうかは 充たすことにかまわなかった
…体験したことがあるような ないような
精神的な対話とは どんなことがあるか
私の見つけたいことを投げかけてみようと思います