望郷の父・・・13 父の背景「家族旅行に求めたもの」 | 魂の選ぶ声を聴く ~言葉にならない想いをつなぐ~

魂の選ぶ声を聴く ~言葉にならない想いをつなぐ~

無意識のストレス反応を意識的に変化させて
気づきと自然治癒力を高め 自分や周りのひとの存在に光をみる人生を楽しんでいます

望郷の父・・・目次



父は 私が小学2年生の頃から 毎年


一年に一回の家族旅行を計画し、実行した


時期は 毎回春休み



広島から 隣接している中国地方の各県、九州、四国・・・


車での旅行だった



父は 「どこに行くんか、どこに行きたいんか、調べて 計画せえ」 と


主に 長女の私に 言い渡した


私は 何で調べたのか記憶にないが


父が指定した「○○県の○○あたり」という目的地まで


行き帰りのルートや周辺の観光名所などを調べ


私の興味があるところ、父の行きたそうな史跡のあるところを


書き出して 父に提出していた



さすがに 小学校低学年の頃は まだできなかっただろうが


いつの頃からか それが習わしとなっていた



私が提出したものは 父の目にはふれたが


重要視はされていなかったような気もする



そして 旅行終わりには 「感想文」の提出を求められた



父は ひとつの行事を達成することで


その効果を 幾倍にもしたかったのかもしれない



計画性、達成度、次回への検討・・・なんて、これは 会社の企画書か?


事前学習することで 現地入りしたときの感動や認識がより深いものになる・・・なんて、これは 修学旅行か?



なにより 「感想文」が いやだった



何を書いたら いいんだ?



「おとうちゃん、こんな楽しいことをしてくれて ありがとう


しごとで つかれているのに、わたしたちのことを大切にしてくれて ありがとう」



って 書いたらいいのか?



いやだ、絶対 書きたくない




・・・なので 小学生の私は 旅行の行程をつらつらと書き連ねたような気がする




その私の「感想文」を読んだ父は


「こんな だらだらと『どこ行きました、ここ行きました』じゃなくて 何が楽しかったか、何がおもしろかったかを書け」


みたいなことを言っていた



・・・知るもんか



当時の私は イライラと そう感じていたような気がする




父は ただ 私が、娘たちが どんなことを感じたか 知りたかっただけなのかもしれない




一方で


やっぱり父は、自分のしたことの「成果」を認められ、ほめそやされたかっただけかもしれないとも想う



父が求める「感想文」というのは、私たち娘だけでなく


バレーボールを指導していた「看護学生」さんたちにも 求めていたらしいし




父は 自分の父親が 「自分には 何もしてくれなかった」と感じていたらしいので


自分は 自分の父親のようにはならない


自分は 「いい父親になる」「自分がしてもらいたかったことを 自分の子どもたちにしてやりたい」


と 想っていたらしい



父は 「いい父親」であると同時に 「いい会社員」でもあったのかもしれない



「いい」をがんばっていた父は がんばりがきかなくなるのか


どこかに出かけなくては やりきれなくなるのかもしれない



それが 春休みの「家族旅行」だった・・・のかな




私にとっての春休みの時期というのは


喘息と湿疹がひどくなる時期でもあった


旅行に出かける前の晩から 熱が出ていて、ふらふらで 苦しいこともあった


喘息がひどくて 横になって眠ることもできず


ひとり 座って、朝まで 窓の外をみていたこともあった




車での移動では 助手席に座り、地図のよめない母の代わりにナビをつとめるのは 誇りだったし


車のなかで カセットテープにふきこんだ歌番組に合わせて、妹たちと大声で歌うのは 楽しかったし

(姉妹の声が似ているので 3人でのばしたときの声は とっても気持ちよかった)


見知らぬ土地は 新鮮で、心惹かれたし


家族で過ごす時間は 幸せだったし



経験は すべて貴重なもの


両親が 授けてくれた宝物







この家族旅行のことを書くことに 筆が進まずにいた


「成果」を認められたがる父の姿が


まんま 私の姿だと


痛くて 痛くて


書きづらかった・・・





「成果」が出ることを 求める、しかも 「早急に」


誰かから「認め」られる、しかも 「自分の求める表現で」



私が父に見つける姿が


まんま 私の姿だと