空は、碧く、何処までも広く。 -9ページ目

空は、碧く、何処までも広く。

うまく生きられない、混沌としている日々は、双極性障害のせい?ときに、途方もなく明るく有能な気がするのに、ある朝突然消えたくなる。



調子が悪くなる兆候が出ている。

いちいち気になることが増え、そのことで頭がいっぱいになる。

冷静に、理性で判断し行動に移せない。

理性で判断しようとする、だけど気持ちはついてこない。

自分への問いかけ「私はどうしたいの?」

これが分からなくなってしまう。

私は、主人の笑顔のためならなんでも犠牲にしてまい、うまくいかないと「あんたのせいだ」となってしまう。

ちがう。

判断し、実行したのは私だ。

主人の笑顔がほしいと思い、そう行動したのだ。

そこには何も間違いはない。

自分を犠牲にしての行動はしてはならないし、自尊心の低い人のやり方だ。


自分の笑顔と相手の笑顔のためにひびを紡げたら。







主観的にうまくいかないことが積み重なり。

ここ数日、睡眠薬のアモバンと酒を一緒に飲んでいる。

ヤケクソというよりは、アタマをフリーズさせたい。

何もかも考えたくないことばかり。

呆然としたい。



家のお金ことで、主人と不思議なすれ違い。

お金のことは、ある一定の苦渋の決断を出したのだけど。

私は、主人を結果的に困らせて悩ませてしまっている。

そのことに、落ち着かず。

今夜は不在の主人にメールすれど返事もないまま。



こういうとき、痛烈に感じる。

私は、結局主人がいないと何もできない。

主人の存在が私を支えている事実。



ああ、私は、喧嘩もしたくないし、穏便にしたい。

平和に、お互いが笑顔でいられる生活を送りたい、そしてそれは、私の生涯の希望かもしれない。


私は、身勝手だ。

主人の責任だと思い、内心怒っていたり。

本当は、主人にも辛いことが沢山ある。

分かっているつもり。

だけど、顔を合わせると、頓珍漢なことばかり。




それで、焦って、気が気じゃなくまるで落ち着かないから、酒を煽る。

リーマスを服用しているから危険度は増す、とあったけど、今日はもういい。











ブログと向き会う時は、あるまがままの自分でありたい。

世間はしがらみばかりだ。

お金や、名声や、地位やそんなこのばかりに囚われている。



私は物心着いたときから、「自暴自棄」という処世術が見に染みていて。


なにもかも、所詮は「死ねばいい」と行こう考えに逃げ込む自分がいることに気づく。


そう、だって、どんな大金もいかなる崇高そうな悩みも、死んでしまえば無になるのだじから。




正直、これほどに困窮するとは思わなかった。


そんなことを考えつつ、仕事から帰路に着く。


躁のときか、鬱の時か、そのいずれもの時か。

散財してしまっていたことに今更気付く。


悔やんでもどうにもならない。

先のことを考えなくては。

先に進まなくては。

破滅的ではなく、建設的に。

旦那責めても、過去の自分を責めても解決にならない。

必要なのは、感情でなく、理性、思考、計算。

むしろ、後悔や屈辱は邪魔者でしかない。




急に、寒くなったのを感じる。

寒さは、私に去年の荒廃して行った頃を急速に思い出させる。

たった1年で物事は恐ろしいほど変化した。

きっとこの先もそうなのだろう。

「進まなくてはならない。」

そんなことを意識しなくても、きっと進んで行く。

良くなったり、また悪くなったり。

そんなことの繰り返し。

そして、それでいいのだろう。

「今」は、いつも日々の一瞬に過ぎない。








長く書かずに放置してしまった。

書く心境ではなかったし、その意義も見出せなくなっていた。

日常を取り戻すことに忙しく、半ば自棄になりもした。


少しずつ、会社に出る時間を増やせている。

私が苦手と感じる社員にも、距離を置けるようになってきたように思う。

「苦手」なのは、私が1人無意味な闘争心を抱くから。

出会った時から、「私の方が優っている」そう思いながら隣で働いていたけれど。

今になってようやく気付く。



「彼女は闘う相手ではなかった。

闘いの相手は、自分自身。」


それに気付いた時、何もかも大したことではなかったことが分かった。


当たり前だが、私は私の生き方でやればいい。

他の人が私をどう評価しようと、それは真実でもなんでもない。

重要なのは、私が自分をどう評価するか、だ。




完全復帰の目処は、立ちそうでまだ暗中模索だ。

でも、それはそれでいいのかもしれない。




まともな健全な日常を送りたいと思う反面、私の中には混沌好む自分も存在する。

ただ、それだからこういう感じで時間を過ごしていけるのだとも思う。



もはや、私は病気でなく、このやり方が自分の処世術なのかもしれない。