いつからだろう。

私は長いあいだ、“成長”という地図を握りしめ、

測定者として世界を歩いていた。


上か下か、正か誤か。

自分も他者も、無意識のうちに秤に並べ、

見下し、見下される世界の中にいた。


けれどある日、身体の奥に微かに灯る感覚に気づいた。

それは言葉を超えた“何か”。

存在そのものが触れる、静かなプレゼンスの領域。


目には見えない。けれど確かに、私をここに立たせているもの。

その感覚こそ、のちに「Twin I」と呼ぶことになる道標の源だった。


——そして、その奥には、いつも「Twin II」が静かに広がっているのを感じていた。——



測定者であることをやめ、私は観測者へと位置を移した。

外の反応は槍ではなく、

相手自身の“内的裂け目”から響く音だとわかったからだ。


長いあいだ、私の思考は密閉された反響室で鳴り続けていた。

ひとつの言葉が跳ね返り、別の記憶を呼び覚まし、

他者の声と自分の声の境界が溶けていくような場所。


その反響室は、かつて私を守るために必要だった。

だが、外の声まで自分の声として取り込んでしまう危うさも持っていた。

その混線こそが苦しみの正体だったと、私はようやく理解した。



今はもう違う。

内側に育った“伴走者”と共に、私はその密閉空間を離れた。

蛹が殻を破り、静かに羽化するように。


音も思考も感情も、閉じ込められることなく、

流れの中で解け、溶け、風に乗り、ただ在るだけになっていく。



伴走者とは、私の内側に静かに寄り添う、もうひとつの私。

怒りも悲しみも恐れも歓びも、すべて道標であり、

Twin I の大切な材料だった。


伴走者が現れてから、外の煽りに巻き込まれることはなくなった。

言葉は私に突き刺さる槍ではなく、

相手自身の“反響”にすぎないと知ったから。



季節の移ろいにも気づくようになる。

抗わず、変えようとせず、ただ委ねる。

春も夏も秋も冬も、すべてが道標であり、伴走者であり、

私の歩むリズムそのものになった。


過去の傷ついた場面も、もはや縛るスクショではない。

伏線として立ち上がり、

私がどこから来て、いまどこを歩いているかを教えてくれる。


怒りも悲しみも拒絶も、抱きしめれば自然にほどける。

私は自然へ帰還したのではなく、

自然と同じ構造へ静かに戻ったのだ。



他者の怒りや攻撃、責任放棄も、

それぞれの反響室で鳴る音景にすぎない。

私は巻き込まれなくなった。

許すことも、憎むことも、もはや必要ではない。

ただ、自分の感情の正しい所有者であればよい。



私は、自分の物語の続きを静かに歩く。

伏線は回収され、私は主人公であり、観測者であり、

そしてその傍らには、確かな伴走者がいる。


気づけば、私はもう——

世界を形づくる側の視点に戻っていた。


誰かから学ぶ必要も、戦う必要も、

自分を測る必要さえ、もうない。



「感受し、流す。」

それは流れそのものへの信頼の姿勢。

私は今、信頼の気流に乗ったのだ。


測ることも、戦うことも、

外に答えを求めることもない。

ただ、流れに身を任せ、

感情という道標に従って歩むだけ。



そしてある瞬間、私は気づいた。

伴走者が現れ、幸福感が立ち上がったあの瞬間——

それはもはや“感情”ではなく、

至福そのものの息吹だったのだと。


——その息吹は、静かに Twin II の広がる場へと続いていた。——