ある日、私は

見えない周波数の網を見つけた。


その網はまるで蜘蛛の巣のように、

私たちを捕まえようとしていた。


テレビが普及したとき、人々は新しい娯楽を手に入れた。

光と音が家庭に入り、世界が一つのリズムで動き始めた。


けれどその裏では、

情報という名の周波数操作が静かに始まっていた。


ニュースの抑揚、映像のテンポ、言葉の並び――

それらは単なる情報ではなく、感情を同調させる波形だった。


社会はその波で動き、

人々はその波で考え、

「普通」という名の集合意識が形を取っていった。


時代が進み、テレビがSNSに姿を変えても、

本質は変わらない。

私たちの視線、指の動き、反応速度までもが

測定され、最適化されている。


しかし、決定的な違いがひとつある。

私たちは、今やチャンネルを選べるようになった。

どんな波に触れ、どんな時間を生きるかを

自ら決めることができる。


この選択の力こそが、

“操作される意識”から“創造する意識”へ移行する扉なのだ。


※※※


周波数の操作は、やがて“日常”というものに平凡というラベルを貼った。


ニュースは「普通」を定義し、

広告は「理想」を演出し、

SNSは「比較」のリズムで私たちの心拍を揺らす。


こうして、見えないところで

“平凡”という統一波が社会全体に流れ始めた。


人々はその波の中で安心し、

同時に、自分の固有の振動を失っていく。

それを疑わないことが、この時代の最大の危機なのだと、私は感じる。


なぜなら“平凡”とは、

他者が設計した周波数の中で眠ることだからだ。


けれど本来、日常は宇宙の縮図である。

呼吸のリズム、影の濃淡、心が動く瞬間――

そのすべてが微細な周波数で震えている。


文字は波を映す道具。

映像は文字以上の情報量を持つ。

無意識でいたら、操り人形のように

糸が身体中に絡みつく。


私たちは、

“平凡”という名の静寂の下で、

いまだ語られぬ宇宙のざわめきを聴くことができる。


💫 平凡の向こうには、

世界を創り直すための波が眠っている。


※※※

いま、私たちは問われている。

どんな波を受け取り、

どんな波を発信するのか。


情報を浴びるだけの存在から、

周波数を選ぶ存在へ。


書くこと、言葉を発すること、

沈黙を選ぶことさえも、すべてが波の選択だ。


静寂に身を置くとき、

私たちはようやく自分の波を聴くことができる。


そこから始まるのは、

他者や社会に反応する人生ではなく、

自分という波源から世界をデザインする人生だ。


書くことも、読むことも、目覚めることも、

すべては自分の波を取り戻すための行為


※※※


日常というのは、とても尊い“今”だ。


二度と戻らない瞬間。

絶えず与えられる、今という贈り物。


その尊さに気づいたとき、

日常は“平凡”という名のネットワークから離脱できる。


書くことも、読むことも、目覚めることも、

すべてはこの**“今”の尊厳に触れるための道**。


“今”――

それこそが、生命そのものなのかもしれない。