バツっていうけど、どちらにしろ転換期には違いなく。その2 | 桃色テラス

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あはれ来て野には咏へり曼珠沙華

三橋鷹女が理想です。

その1はこちら。
 友人の離婚を聞いてすぐに思い出したのは、父のことだった。
 私の父もいわゆるバツイチだ。ちなみに母親違いのきょうだいは居ないらしい。中学に上がった頃、事実を知った。父は「あれ? 知らなかった?」と軽い調子で、私自身も「もしかしたらお兄ちゃんがいたりするの?」なんて混ぜ返したが、いまだにその情景をくっきり想起できるのだから衝撃はあったんだろう。


 友人が切望していた自分のファミリーを――溺愛していた娘を手放した心情は、結婚も出産も忌避する私にはまったくわからない。推し量ることすらできない。子どもは母親の手元に引き取られ、面会しないことを条件に上げられ、その代わり養育費は不要。彼も「一方的に離婚を言い渡された」ことについての慰謝料は請求しない。
 お金の話に換算されていくのは切ない……と感じるのは、非婚者の感傷なんだろう。もしかしたら、気持ちを割り切るためにもそのプロセスが必要なんだろうか。


 「もう続けられない」と彼女が切り出すまでにどれだけの時間が掛かったのだろう。切り出された側は「唐突だ」と受け止めるのでであろうが、切り出す側は長い時間気持ちをあたため発酵させ続けたんだろう。
 私が知人の離婚を間近で見ていた折、仲立ちしていた父がよく口にしたたのは、「どちらか片方がダメだと思ったら、ダメなんだ」。夫婦の合意がなければスムーズに離婚は成立しない。泣いて怒鳴って揉めて「じゃあ裁判で決着だ」となる。そうじゃないのだ、ダメだと言ったら、それでおしまいなんだと言う。
 その理屈に乗っ取ると、妻君が「続けられないと」思い至ったのだから彼の離婚もやむを得なかったのか。
 ただ、父は離婚したくて「した側」だったそうなので、「される側」の気持ちには無頓着なのかも知れないなと今になって思う。



 大人に囲まれて育ったためか、周囲には離婚経験者が多いと感じる。だから特段珍しい事でもなく、離婚したばかりの友人が口にした「申し訳ない」「お恥ずかしい」「せっかく祝ってくれたのに」「周囲への義理や恩もあるのに」など少し卑屈な言葉に同意することは出来なかった。昔から、“気にしぃ”で優しかった彼らしいといえば、らしいのだが。

 何にせよ転換期には違いなく「飲み会でもしなきゃね」といったら「仲のいい同姓の友人には話し、『呑もう』と言っていたのだが、それっきりになっている」とうつむく。まあ、私には呑むことぐらいしかできないのだし、「新たな角出ともいえるのだし、お疲れ&おめでとうな気分でパっとやろうよ」と話がまとまった。



 何かとニュースを賑わす大阪市長に限ってのことではないが、「ぶっ壊す」とか「変える」とか、変革を目指す威勢の良い言葉は一人歩きしやすい。ぶっ壊し変える対象が、「不満がつのる今の暮らしやその原因であるなにか(政治体制etc.)」であると錯覚しがちだからか、劣等感や山積したフラストレーションを燃料に、容易く煽られ延焼する。


 結婚も離婚も何かが変わる切っ掛けなんだろう。同棲からの結婚などは書面上だけの手続きで済むこともあろうが、離婚はガラリと生活が変わる。彼はパートナーと子どもと別れ、住居が変わる。

 「ぶっ壊す」「変える」を取りざたするのは、スクラップ&ビルドのスクラップばかりを崇めるようなモンだと思う。更地になったそのあとに何が建造されるのか、それとも更地のままにしたいのか。本当に大切なのは、そっちだ。決まらないなら決まらないでイイ。でも、建てられないのに花火ばっかり盛大に上げるようなマネは、スキじゃない。



 「今はまだ恋とかそういうのはイイヤ。趣味が楽しいから」なんて言っていた。空き地に何を建てるかは決まってない、ということなんだろう。おちゃらける割にどこまでもつつましい彼の前途にひとつでも多くのハッピーが訪れますように。




*私が結婚しない主義であることと、父の来歴は関係があるようなないような。よくわからない。
 自覚している一番の理由は実母が苦手だから。それに加えて、夫婦別姓が施行されないから、妻が夫の所有物として扱われることもままあるから、戸籍制度に疑問を覚えるからなど、後出しじゃんけん的なんちゃってフェミニズムテイストな理由が山ほど積み上がる。父の離婚は……どうなんだろう。
 

*〈ダメだと言ったら、それでおしまい〉:
恋人同士のつきあいと何ら変わらない気がするが、やっぱり私にはよくわからない。だから結婚に対する欲望がゼロなのかもしれないなぁ。