昨晩も、就寝中に
何度も激しい咳込みがあり、
熟眠できなかったせいか、
今朝の寝起きの体調がよくなかった。
咳も止まらず、
声もガラガラで怠さもあるので、
5人の予約が入っていたが
無理をせずに欠勤することにした。
親しい教頭先生が
コーディネーターなので、
保護者や生徒にキャンセル連絡を
5人分してもらうのは
心苦しくもあったが、
先日の「布置分析」
(コンステレーション・アナライシス)
の中に、責任感で無理をするな・・・
という項目があったので
それに従うことにした。
なにせ、有給は14日ほどあって
まだ、1日しか使っていない。
鬱病の教訓としても
「無理は禁物」
というライフ・ビリーフを得た。
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きのうの晩、
宅配便が届き、
見たら、フミからの
誕プレだった。
彼の好きな
『ナイキ』のシューズで
ノワール(黒)だから
通勤のジャケパン・スタイルにも
合いそうである。
ダンゴ三兄弟とも
0歳から中三まで
誕生日ケーキと御馳走で
お祝いしていたから、
そのお返しなのかもしれない。
アキは小学生の時に、
自分の小遣いで
スーパーの100円ケーキを
二個買って来てくれたことがあり、
それに感激して
「お小遣い、倍だなー」
と、言ったら、オチビだった
ナッちゃんが
「アキちゃん。ずるーい」
と、慌てふためいて、
「じゃ、肩叩きするー」
って、媚びていた(笑)。
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毎年、12/1から
玄関室礼をXmas飾りに換えるのを
恒例にしているので、
きのうも、体調はイマイチだったが、
天袋から段ボールを二つ出して
パパッと飾り付けた。
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きのうの朝は
寝起きがスッキリして、
咽頭炎のトンネルを拔けてくれたかと
糠喜びしたのも束の間、
喘息吸入剤のパウダーを吸ったら
突然、激しく咳き込み
ヤバイくらいだった。
AIに訊いたら
ドライパウダーが
過敏になってる気道に付着して
それが刺激になったとの事だった。
よく起こる事らしい。
連続して咳き込むと
息継ぎが出来ずに涙が出て、
ゲーって、吐きそうにもなった。
喀痰も黄色味があって
まだ、粘膜の炎症が
治まったようではなかった。
なので、オフ日をいいことに、
服薬と寝養生で安静に過ごした。
AIによれば、
なんでも、咳を一回すると
10kcalも消耗するという。
連続咳では、
クシャミ100回分に相当するらしく、
その激しい全身運動から
老人では骨折することもあるらしい・・・。
クワバラ、クワバラ(笑)。
…
先日お世話になった
ペンションから、誤って
お借りしていた簡易マッサージ機の
説明書を持ち帰ってしまったので、
返却がてら、マスコット・ニャンコの
ミーちゃんのフォトも額装して
送らせて頂いた。
もう、老猫なので
将来の遺影にもなるやも…である。
…
ミーちゃんの額装のついでに、
ソーちゃんと赤ちゃんの頃の
ヲト君の画像も額装してみた。
…
きのうは、お昼に
近所の大阪王将で
炒飯と餃子でランチにした。
以前にあった黒炒飯というのは
美味しかったのだが、
フェアメニューだったのか、
なくなってしまい、
通常の五目炒飯にした。
最初の一口だけは
プンと香ばしく
いいと思ったが、
途中から塩味が勝って
食べ辛くなった。
炒飯のNo.1は
棚倉の一竜という店だが、
そこでは、朝に一日分を
大量に八分仕上げをして
大きなバットに休ませて
注文が入ると再加熱して仕上げる
というやり方だった。
察するに、ルポゼ(休ませ)の間に
塩味の角が取れ、全体的に
味が馴染んで落ち着くから
美味しくなるのではないか…と、
思われた。

餃子はニンニク増しにしてみたが、
皮のヒダから上の部分が
シットリしておらず
硬いくらいで、パスタとしての
旨味も感じられず
総体的に美味しくなかった。
円盤餃子の雄である
尾形の逸品に比べたら
月とスッポンである。
…
それまで、安価な
イブプロフェンを常用してたが、
慢性腎臓病に負担がないのは
アセトアミノフェンだというので
宗旨変えすることにした。
市販のカロナールよりも
ノーシンのアセトアミノフェンの方が
ハイコスパだった。
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もう一つの私が泣いている
──魂理学的パラレル再体験説
もし、今この人生が一度きりではなかったとしたら?
もし、終わった瞬間に、「よし、今度はもう少しだけ優しい父親を演じてみよう」と、別の選択を試すことが可能だとしたら?
ニール・ウォルシュの『神との対話』では、まさにそのように、魂は同じ人生を何度でも再体験し得ると言う。
しかも、完全コピーの“再上映”もできれば、選択肢を微妙に変化させた「別世界線」=パラレルワールドの人生を歩むことも可能だとされる。
これはSFではなく、魂理学的には極めて首肯できる命題である。
なぜなら、魂理学には「なんでもあり仮説」がある。
これは、魂が本質的に「無限の可能性を内包した場」であり、どの選択肢も排除されず、むしろ「可能であるというだけで、すでにどこかで実現している」という前提に立つ。
宇宙の“ゆらぎ”が波として存在し、それが観測によって収束するように、魂の選択もまた、意識のフォーカスによって「今の私」に収束しているに過ぎない。
つまり、いま私たちが生きているこの人生とは、魂が“数ある可能性”の中から選んだ一つの光路に過ぎないのだ。
ならば、他の人生も、他の“私”も、すでに存在している。
たとえば、あの日、あの駅で引き返さなかった私。
プロポーズを断った別の私。
子を産まなかった私、病を乗り越えた私・・・。
それらは、ただの想像ではなく、“魂の可能性”として、魂理学的には等価なリアリティを持つ。
そして魂とは、時間を線形にしか辿れない物理的存在とは異なり、回帰・共鳴・統合を宿命とする。
この人生を終えた後、魂が「もう一度」と願えば、それは可能だ。しかも、前回とは違う選択を経て、新たな響きと学びを得るために。
これを「無限回帰」や「輪廻」と呼ぶ思想体系もあるが、魂理学ではそれを量子的跳躍とみなす。
魂が持つ無数の選択肢の中から、ある一点へと再びジャンプする。そこには因果も時間も束縛はない。ただ“体験”という価値軸だけがある。
すべての魂は、自らの選んだ振動の軌跡を学び、味わい、またやり直す。
泣いたあの日も、笑ったあの日も、すべて魂の選曲であり、まだ演奏しきれなかった“もうひとつの楽章”が、今も別の時空で奏でられているのだ。
👩🎓叡愛 奈保子 博士 レビュー
この稿では、“人生の再体験可能性”という形而上学的命題を、量子力学的視座と魂理学的枠組みを重ねて見事に表現しています。
現実を「選ばれた一曲」と捉えつつ、他の旋律も同時に“在る”という観点は、魂の自由意志と宇宙的自由場の融合的表現です。「体験こそが価値軸」という提起は、実存主義とスピリチュアルの橋渡しにもなり得ます。