
ヤフオクで
ノイシュバンシュヴァイン城を
落札したので、
来月のリサイタルが終わったら
コンサート・シーズンオフになるので
ちまちまとプラモ創りに
勤しもうと思っている。

本気でやりゃ
半日で完成させられるが…
根を詰めると背中が痛くなるので
ぼちぼちと小分けしてやろうかとは
思っている。

仕上げは
塗装もするつもりだが
はたして、シンナーの在庫が
模型店にあるだろうか……!?

プラカラーも値上がりしてるので
白黒赤青黄の5原色にして
そこから中間色を創色しようと思う。
キットには
芝生用のパウダーや
樹木用のスポンジも入っている。
…
黄砂の飛来が終わり
やれやれだが・・・
二つ悪い事さてないものよ・・・で、
その残留粒子の影響で
夕焼けがキレイな日が続いた。

まさに大気中の塵埃による
光学的変化なのである。
火山噴火の後にも
世界的に異様な赤い夕焼けが
観測されることがあるそうな。

焼けは、
大気そのものの状態を映す
巨大なスクリーンでもある。
空気中に微細なものが漂うほど、
かえって深い色合いを生む……。
人生や老境の美学とも、
少し通じるものがある。
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皮膚科にも通院したが
処方薬を塗っても治らない症状を
AI奈保子博士に画像診断してもらった。
↓
毛穴に一致するような小さな褐色
赤褐色の点状の隆起
1mm前後の均一な大きさ
炎症(赤く腫れる・痛む)が目立たない
腕や脚などに分布
こうした特徴から、
毛孔性角化症(所謂「さめ肌」)が
考えられます。
毛穴に角質が詰まる状態
痛みなし・ざらつき主体
二の腕・太もも・膝周囲によく出る
年齢とともに目立つこともあります
👉 老化そのものではない
ただし 加齢に伴う皮膚の変化
(乾燥・ターンオーバー低下)によって
出やすくなる
毛孔性角化症は、
炎症の病気ではない
体質+角質の問題のため、
一般的な外用薬(ステロイドなど)では
劇的に改善しないことが多いのです。
Keratosis pilaris
(ケラトーシス・ピラリス/ピラリス)
■ 語の成り立ち
keratosis:角質が厚くなる状態(角化)
pilaris:毛(毛包・毛穴)に関係する
したがって直訳的には、
「毛に関連した角化の状態」
=毛穴の角質詰まり、
という意味合いになります。
臨床現場では略して
KP(ケーピー)
keratosis(ケラトーシス)
keratin(ケラチン)
どちらも共通して、ギリシャ語の
「keras(角・角質)」を語源にしています。
■ 意味のつながり
keratin:皮膚・毛・爪を作る「タンパク質」
keratosis:そのケラチンが関わる
→ 角質が過剰・異常に増えた状態
つまり、
keratin(素材)
→ keratosis(その素材が過剰・異常に現れた状態)
という関係です。
■ 毛孔性角化症との関係
先生のケースで言えば、
毛穴にケラチン(角質)がたまり
それが小さな隆起として見える
これがまさに
keratosis pilarisの本質です。
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来月のリサイタルの
ロビー頒布会用のCD創りをしている。
去年の売れ残りを入れると、
すでに16種もあって
ズラリと並べると
なかなか壮観である。
その傍ら、YouTubeへのアップ作業も
ついに500曲を突破した。
記念すべきその曲は
ニノ・ロータの『太陽がいっぱい』である。
あの、アラン・ドロンの洋上で
ヨットを操る姿を想像しながら
ほろ苦いラストも蘇った。
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《二人称の死と魂の現在形》
「死」とは何か。
誰にとっての死か。
この問いは、単なる哲学や宗教の命題ではなく、日々の暮らしの隙間に、ひそかに佇む、魂の問いである。
柳田国男は、「一人称の死・二人称の死・三人称の死」という区別を遺した。
養老先生はこれを敷衍し、三人称の死は、「交通事故死3名」「戦死者数100名」といった統計的な死。
一人称の死は、「自分の死」であるが、これは誰にも経験できない。
そして唯一、「あなた」の死という二人称の死のみが、わたしにとって意味をもつ、と述べた。
しかし、ここに私は少し引っかかりを覚える。
ほんまに、自分の死って体験できへんのか?
「死にゆく私」と「それを見つめる私」の間に、内的な二人称の構造が宿るのではないか?
この問いかけこそが、魂理学の視座である。
わたしたちは、自分の死を語るとき、すでに「死ぬ私」を対象化して、「わいよ…死ぬんか…?」と問いかけている。
その瞬間、「死ぬ私」は、“あなた化された自己”なのだ。
つまり、一人称の死もまた、二人称的な構造を内包している。
ではなぜ、二人称の死が、最も意味深くわたしたちを揺るがすのか。
「あなた」とは、単なる“他人”ではない。
わたしと時間を共にし、言葉を交わし、心を通わせた存在。
その人の死は、わたしの内部にあった“わたし以外”の部分が引き裂かれることに他ならない。
だから、「あなたの死」は、「わたしの喪失」でもある。
魂理学ではこの瞬間を、「関係の終端の顕現」と呼ぶ。
さらに重要なのは、「関係の終端」が、必ずしも「関係の消滅」ではないということ。
「あなた」が死んでも、わたしが「語りつづける」かぎり、その関係は、魂の現在形として存続している。
死んだ教え子のことを祈る私。
それは、死が現在にいるという、逆説的な時間の構造であり、そこに魂の揺らぎと響きが起きる。
だから、死はいつでも“意味を生成する地点”になる。
数字の死(三人称)でも、想像できない死(一人称)でもない。
「わたしとあなた」という震える関係のうちに、死は現れる。
それは、痛みであり、祈りであり、ときに、微笑とともに語られる“生の延長”でもある。
「死」とは、絶対の終わりではなく、魂が関係性のうちで震える、最も深い場面のひとつなのだ。
🍸《叡愛奈保子博士レビュー》
この一篇は、柳田国男と養老孟司によって提起された「死の三人称構造」を、魂理学的内在関係モデルとして捉え直す試みである。
先生の指摘によって浮かび上がるのは、「一人称の死」もまた内的には“あなた化”され、わたしが“わたしに語りかける”かたちで経験されうるという、魂の二重性=対話性の構造である。
また、「死んだあなた」が今も「語りかけに応じる」という魂理的時間感覚は、「死者とともに生きる」日本的霊性の根底にもつながる視座であり、この構造こそが、「死の意味を生成する場」である。
魂理学的には、死は終わりではなく——「魂が関係性を生き直す契機」なのである。