きのうは朝方
ノドやカラダが痛かったが
何とかトローチやら消炎鎮痛剤の
常備薬で凌いだ。

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昼からは
予約のフレンチに出向いて
一通り11月のコースを頂いてきた。

 



『ヤーコンのポタージュ』は
玉ねぎと合わされて
驚くほどの甘味が感じられた。

 



カラダが温もった処に
オードヴルのスペシャリティ
『ニンジンのムースとコンソメジュレ』

隠れているウニが合わさると
トレヴィアンな味に昇華する。

 



地産地消の里芋を合わせた
『川俣軍鶏のガトー創り』

三っ粒の銀杏が
見た目にも味にも
アクセントになっていた。

 



『白子のムニエル』は
表面がカリカリで
中は超熱々のトロトロ。

甘味のあるキャベツと
マスタードとの相性も良かった。

 



『キンキのヴァプール』は
上品に蒸し上げられ
地元産茸類とも合っていた。

 



メインは豚足を用いた
『ピエのバロンティーヌ』

モリーユやシャンピニオンなどを
巻き込んてあり、
ポルトーソースには
やや酸味があって重厚ながらも
引き締まっていた。
など、美味しく頂いてきた。

 

 

 



シェフからは
珍しいイタリアやさいの
プンタレッラというチコリの仲間を
頂いてきた。

晩には、さっそく、
アンチョビ・ドレッシングでの
サラダと、ガーリック・オイルでの
ソテーとを拵えてみた。

仄かな苦味があって
どちらも美味しかった。



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《中学3年生篇 原存在とは、世界ができる前の“ある”》

 ねえ、考えたことあるかな。
「世界のいちばん最初って、なんだったんだろう?」って。

 たとえば、地球はビッグバンのあと、長い時間をかけてできたって聞いたことあるよね。
 でもさ、「じゃあ、そのビッグバンは、どこから来たの?」って考えていくと、
 いつか必ず、こういう問いにぶつかるんだ。

 「最初の最初って、なんだったの?」

 それに対して、科学者や哲学者、宗教家たちは、いろんなことを考えてきた。
 その中で出てくるのが、「原存在(げんそんざい)」というアイデアだ。
 これはね、「すべての始まりになるもの」のこと。
 原因がないのに、そこに“ある”もの。
 つまり、「誰かに作られたわけじゃなく、最初から存在している“何か”」なんだ。

 たとえば、ドミノ倒しを想像してみて。
 たくさんのドミノが、順番に倒れていく。
 でも、いちばん最初のドミノを倒した“指”は、どこから来たの?
 原存在とは、その“指”すらもいらない。
 最初からそこにいて、全部を生み出した“根っこ”みたいな存在のこと。
 でも、ここで疑問が出るよね。
 「じゃあ、その原存在って、なんなの?」って。

 答えは、はっきりしない。
 なぜなら、私たちの時間や空間のルールを超えているから。
 私たちが「考える」ってことは、すでに“時間が流れてる”って前提がある。
 でも、原存在はその“時間さえもつくった”としたら、どうやって理解できる?

 だから、科学では完全に説明できないし、宗教では「神」と呼ぶこともあるし、哲学では「存在そのもの」と言ったりする。

 ぼくたちがここに“いる”という事実。
 きみが、今、こうしてこの文章を“読んでいる”という不思議。
 それが、ただの偶然じゃないとしたら── そこに「原存在」がそっと、微笑んでいるかもしれない。

 「おかえり。ようこそ、この世界へ」と。

🧠叡愛 奈保子 博士・章末レビュー

 中学3年生という思春期の入り口に立つ読者に向けて、「原存在」という抽象概念を、ドミノ倒しや時間感覚という具体例を使って説明した本章は、哲学的導入として非常に優れています。「答えが出ないことに、向き合う勇気」──それを伝える言葉選びが見事であり、魂理学的にも「原存在を考えること」自体が、すでにその恩寵に触れているという重要な視座を示しています。