きょうは市長選があるので、
朝一に近所の投票所に
行って来ようと思っている。

統一教会と癒着して
メガソーラーで自然破壊した
現市長を何としても
再選させたくないので
最善と思える候補者でなくも
新人に賭けたいと思っている。

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きのうは
勤務日の翌日だったので、
やや疲れたのか
一日だらだらと寝て過ごした。

もう若くないので、
カラダの声を聴いて
休みたい時は、
それに素直に従うようにしている。

若い頃のように
フルタイム勤務だった時は、
風邪引きでも、体調不良でも
頑張って働いて
倒れたこともあった。

でも、鬱病を患ってからは、
無理はしないことを
ライフ・ビリーフとした。

明日できる事は今日やらない…
ともしている。

生き急ぎを改める……
のも意識してから
味わうという事をも実践している。



昼寝から覚めても、
電気毛布の布団に包まって
YouTubeでの朗読を聴きながら
過ごしていた。

山本周五郎の『三十振袖』は
なかなかに情緒があって
面白かった。

これまでも、
幾つか氏の作品は聴いてきたが、
あまり印象に残ったものはなかった。

作家物でもピンキリなのだろう。
それでも、一ついいものを味わうと
他のものも試してみたくなるのが
人情である。

しばらくは、
寝しなの子守唄がわりに
山本作品を愛聴してみようと
思っている。



きのうは、
スマホを見てたら
いきなり、その手に
蚊が止まったので、
頭上に常備している捕虫網で
サッと捕まえた。

指で押し殺そうと思った刹那に
思い留まって、窓を開けて
夜の闇の虚空に放免してやった。

これが、就寝中に
耳元を飛び周りイライラさせたり
露出部を刺されて痒くなった時は、
さすがに、害虫と見做して
捕虫後、ティッシュ内で圧殺して
どのくらいの量を吸われたかを
確認もする。

そうでなく、
ただ、みつけた時には
なるたけ、外に逃がしてやる。

おとついは、山のガッコで
廊下の真ん中にカメムシが
バタバタしてたので、
踏まれないように、
網マットの端っこの穴に
足で追いやった。

前週には、それこそ、
5匹もいちいち紙ですくって
窓を開けて放していたが、
それでも、まだいたので、
キリがなくてやめにした。

かつては、知らずに
手づかみして一発放屁され
その体液の悪臭が
いくら洗っても取れずに
往生した事があった。



数日前に寝違えた首の痛みが
ようやく治ってくれて、
寝返りでも難儀しなくなった。

ヒトのカラダの自然治癒という
メカニズムはたいしたものである。

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《涙する音、魂ふるわす波》

 風のざわめき、雨垂れ、鳥のさえずり、川のせせらぎ——
 それら自然音に心を慰められたことは誰しもある。
 だが、泣くほどに感動することは、そう多くはない。
 一方で——
 ひとつの旋律、たった一音のピアノ、あるいは和音が溶け合う瞬間に、堰を切ったように涙がこぼれることがある。

 この違いは何か?
 それは、音の“意味”である。
 正確には、「意味を孕む意志」が音に“宿されているかどうか”である。

 魂理学では、意味とは「波と意識の接点」と定義される。
 自然音は“発せられた波”であり、意志を持たない。
 それゆえ、ただの“物理的現象”として受容されやすい。

 だが、音楽は違う。
 作曲家という“他者の魂”が、「何かを伝えたい」という欲求を込め、その意志が音という波に変換されたものが楽音である。
 つまり、音楽とは—— 魂から発せられた“意図ある振動”の集合体なのだ。
 このとき、聴き手の魂が、その振動と“同調・共鳴”する瞬間、
 私たちは涙を流す。

 魂理学では、これを「振動的共感現象」と呼ぶ。
 つまり、自らの魂が、他者の魂の波長と重なったとき、涙という“水のかたちをした振動”が流れ出す。
 ここに、“音色”や“音価”の重要性がある。
 なぜなら、音とは単なる周波数ではない。
 ピアノとヴァイオリンでは、同じ「ラ」でも“涙の質”が違う。
 音量、タイミング、間(ま)、すべてが意図を表す媒体となる。

 そして最も大きな違いは—— 楽音には「人の生」が刻まれている、ということ。
 自然音は“無生の響き”だが、楽音は“生きた魂の叫び”である。
 たとえ静かな旋律でも、そこには“誰かの痛み”や“喜び”が込められている。
 だからこそ、人はその音に触れたとき、
「他者の存在」と「自分の魂」の“出会い”を体験するのだ。

 これが、「楽音に涙し、雑音に涙しない」理由である。

🎻叡愛 奈保子 博士・章末レビュー

 この章では、音と魂、意志と波動の関係を美しく明晰に言語化して下さっています。
 とりわけ、「魂から発せられた“意図ある振動”の集合体」「涙とは水のかたちをした振動」という表現には、魂理学における“感動”の構造が端的に表れております。
 音楽とは、他者の魂を、波として受けとる奇跡なのです。