きのうは
山のガッコの勤務日だった。

 



小中で全校生8人の
小規模校だが、
不登校傾向の子もいるので、
一同が会することは
なかなかない。

 



それでも、みな屈託がなく、
明朗なので、カウンセリングしてても
楽しくもある。



生徒玄関の靴箱は
貼り紙で小学生と中学生に
分けられている。

してみれば…
自分は「老学生」だなぁ…
と、思った。

【修学治人】
学を修め人を治む…
または、治す…
という名前霊(だま)もある。

私淑する
中村元先生が
よく仰っておられた。
【少年老い易く 学為り難し】



きのうから
いくらか秋めいてきた感じがした。

真夏用のクールマットが
朝方冷えすぎてお腹が痛くなったので
毛足の長いベッドパッドに交換した。

それでも、また、
忘れた頃に夏日が
ぶり返すかも…である。



自分の晩年のモデルは
大勢いる。

どういうわけか、
若い頃から、老賢者然とした
老爺が好きだった。

順に挙げれば…
後の金光大神となった赤沢文治
キリスト教作家の遠藤周作
ユング心理学者の河合隼雄
分析心理学者カール・グスタフ・ユング
インド哲学者の中村元
…いずれも老爺・老賢者たちである。

直接、謦咳に接し
会話もさせて頂いたのは
河合先生のみだが、
いずれの御仁方も
我が私淑した心の師たちである。

錚々たる方々なので、
これだけのロールモデルがいれば
まさに、人生磐石とも言えそうだが、
そこはそれ…
いずれの方々も、その生涯には
ご難もありだったので、
自分とで例外ではない。

幸いなことに、
今は、いつ何時でも、
ユングと金光大神以外は
YouTubeでそのご尊顔を拝せて、
そのお声を拝聴する事ができる。

 



最近も、情緒不安定な時には
中村先生のご講釈のお声を
子守唄がわりに聴きながら
目を瞑り、眠りに入っている。

殊に、先生のお声は
滑舌がよく、慈愛に満ちていて、
まことに耳触りが良くって
恰好の安定剤代わりに
なって下さってる。

なので、テープ類も
山ほどあり、出退勤の車内でも
ラジカセで聴いている。

 



先生は
86歳で亡くなられるまで、
書籍に囲まれて
よく読み、書きされて
学者らしい生活を徹底されていた。

 



その姿には
かねてから憧れていたので、
閑職となった今、臨床と研究という
時間を存分に味わえる
収穫期にはいったのだ…
という実感がある。

なので、
夜明け前に目覚めた時なぞは
コーヒー片手に
二十頁も小論を書き進める
という日もある。

人生の晩年に際して、
理想だった学者と覚者になるべく
そのように過ごそうと
日々を暮らしている。

今朝もまた、
こつこつとオリジナル学問とすべく
『魂理学』の1章を書き下ろした。

これも、中村先生のお仕事である
比較思想学という
オリジナル学問の創出に
あやかりたいという思いで
仕事に励んでいる。

 




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「味わう」とは何か?

「味わう」という行為は、単に感覚を受け取ることではない。

・知覚されたもの(光、音、匂い、感触など)
・意識が過去と比較して生じる評価・感情
・身体と心が同時に感じる反応

 この三つが同時に絡み合うことで、私たちは「味わっている」と言える状態になる。
 つまり、味わうことは「経験を今の自分に結びつけ、意味づける行為」と言えよう。

「今」という瞬間は、絶えず流れ去る。
 それゆえ、味わうということは、すぐに過去になろうとする今を意識の中で留め、比較や文脈を与える作業である。
 味わいとは、瞬間が過去になる前に、その存在に意味を与え、心に印象として刻む営みでもある。

 味わうことの意味とは何だろう?

・主体的な存在確認:単なる刺激の受動的認知ではなく、自分が「ここにいる」ことを意識する。

・意味生成:過去との比較、期待や記憶との関連づけによって、経験が単なる出来事から「意味ある体験」になる。

・存在の連続性:今を味わうことで、瞬間瞬間の連鎖が「人生としてのまとまり」や「魂の流れ」として認識される。

 つまり、味わうことは「時間の流れの中で、消えゆく瞬間に自己を刻印し、存在の意味を生成する行為」と言えるであろう。