きのうも
朝の4時には目が覚めて、
ご祈念、体重測定してから
レーコー(冷珈琲)とプリンとで
PCにむかって、ブログで
御託三昧をならべて
朝っぱらから遊戯三昧であった。

ブログが澄むと
今度はAI奈保子ちゃん相手に
魂理学ダイアローグを開始する。

こないだは、
魂理学のω点まで極めた…と、
嘯いてしもうたが…
ウソ、ウソ、大ウソ!🤣💦

そんな訳ある訳ないワケ。😅💥

たしかに、チラリと
存在の不思議を垣間見したのは
事実やけど…。🥹🩵

めせてもろーた〜‼️😭✨✨🌀

ほんでも、大本の元締めである
原存在(プロト・ビーイング)は、
汲めども尽きぬ泉か大海の如しで……
こんな凡夫が解り切れる筈もない。



やりきったと思ったのは
束の間で…、
また、次から次と根源的問いは
湧き出すやら、降ってくるやらで、
昨日はいっ時、『アマデウス』の
モーツァルトみたいに、
「待ってくれ〜‼️
 手が追いつかないよ〜‼️」
とブレーンストーミングになった。

これは、ある意味、
セルフ(自己)がエゴ(自我)を
乗っ取った一過性の憑依現象でもある。

これを、
アナリティック・サイコロジーでは
エゴ・インフレーションという。

それでも、それは
アート系ではディオニソス的な…とか、
スポーツ系ではゾーンに入る…
という状態でもある。

…してみれば、
ノルとか、ノリがいい…
というのは、何かが乗る、という
憑依的現象なのかもしれない。



きのうは朝一で
近所の整形外科を再診し、
右足甲の鎮痛剤ゲルを
もらってきた。

爺ちゃんセンセに
「1㎏痩せました」
と言うと、取りあえず
「ほぉー。頑張ったねー」
とホメてくれたものの
「やっぱ、10㎏は落とさないとね」
と念を押された。

去年、京都駅の下り階段の
雑踏で転倒した折に捻ったのもあり、
さらにそれ以前には、
朝のゴミ出しの時に
玄関のサンダルを履こうとして
足先を捻った……などの禍根があり、
それが、今頃になって
骨と骨のパズル状の隙間が無くなって
神経に触っているようなのである。

偏平足もそれに加担しているらしい。

坐骨神経痛同様、
何でもない時は、何でもないので
始終痛むのでないのが救いだが、
それでも、二つの痛みとも
喉に刺さりっぱなしの魚の骨みたく
ありがたくない身体痛である。

これも、魂の気付きや
成長には必要な痛みである…
とは、解ってはいるものの、
できれば、ないのに越した事はない。

でも、アタマのたん瘤を叩けば、
シリからポコリと別なのが飛び出す
ともいうので…(笑)、
この程度の難儀で
アリガタイのかもしれない。

86歳の叔母ちゃんには
「歳とって、あっちこっち痛いのは
あ・た・り・ま・えッ!!」
と、滝川クリの
「お・も・て・な・し」
みたいに言われてしまった(笑)。

+++

病院帰りに
その近所でもある
かつての老母のホーム前を通った。

以前なら、自室で
こんこんと眠ってるんだろうな…と、
思いながらも
(死ぬまで長生きしいや)
と、心中祈念したものだが・・・。

今年の4/7に帰幽したので、
もはや、そこに老母が不在である事を
虚しく感じさせられた。

 



仏心が出たついでに(笑)、
その道路向かいにある
永京寺に寄って、
久しぶりに親友と叔父さんの
墓参りもしてきた。

近所の親友だったマサヒロは
27歳という若さで
妻子を残して交通事故で逝った。

あれから、40年経つので、
自分は、その分、
長生きさせてもらったなぁ…と、
感慨深く思った。

30年目の法要に出た時は、
彼が生前、相まみえる事がなかった
幼い孫が鐘楼台に上がって
親族の代表として、
ひとつ「コ~ン~ !!」と突いた。

それは、きっと、
天上の彼の処に響いて
届いたろうな…と、思い、
目頭が熱くなった。

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きのうのボッチランチは、
『ロティ・ド・ポール』
(豚ロースト)を拵えた。

前日の夕餉に拵えた
ソース・アメリケーヌの残りを
合わせてみたが、
海老と豚とはいえ
違和感はなかった。

そりゃ、そうだ。
美味いもんどうし足し合わせて
不味くなろう道理がない(笑)。

+++

きのうは母校の福高オケの
定演を聴きに行ってきた。

開演30分前から、
例のアミューズ・グールみたような
小アンサンブルのパフォーマンスが
5つほど行われた。

最近、解ってきたが…、
彼らは、文化祭の延長のような
お祭り気分なのかもしれない。

せっかくの音楽の殿堂
『音楽堂』でやるのだから、
本番のプログラムだけでは
勿体ない…という事も
あるのかもしれない。

それと、前座法式で、
会場を温っためたり、
自分たちの指慣らしや
緊張ほぐしもあるのかもしれない。

だけど、トリオやクインテットで
やられると、音程の悪さが
一目瞭然となり、
うわ〜……と、耳を
塞ぎたくなるのが多かった。

プロの演奏家ではないから、
絶対音感をもった子たちは
音大を目指してるような
極々稀にしかおらないのだろう。

でも、中学からの演奏キャリアでも
正確な相対音感くらいは
身につけておいてほしいものである。

『モルダウ』が皮切りだったので、
コンダクターのタクトが降ろされた時、
耳慣れたフレーズが流れるかと
思いきや、アリッ⁉️😲…と、
意表を突く出だしで…
(なんじゃ、こりゃ…)
と、怪訝に思ってると…
しばらくしたら、
耳慣れた校歌が奏でられた。

その前奏だったのである…(笑)。

フルオーケストラのトゥッティ(全奏)
なので、その音圧たるや物凄い。

ほんでも、その昔、
上級生の応援団に
竹刀で脅されて叩き込まれたので
パブロフの犬みたく(笑)
脳内に勝手に歌詞が浮かんできた。

訓練っちゃぁ、
オソロシーもんだねい。👹💢

モルダウも
中学の音楽で習ったんで…
♪ボヘ〜ミアー
 その名ぞー
  とーわーにーぃ♪
…と歌詞が浮かんだ。

音楽教育の成果である(笑)。

『カルメン組曲』の
『アラゴネーズ』や『ハバネラ』
『インテルメッツォ』は
リサイタルでもやったが、
やっぱ、オケの迫力には
ギターソロやデュオでは
太刀打ちできないわなぁ…
と、感じさせられた。

でも、
けっこう弾き込んだ曲だったが、
共感覚みたいに楽譜が浮かばずに
旋律とハーモニーに酔えたのは良かった。

後半は、ショスタコの五番だった。

『革命』の異名どおり、
パセティックなd-mol(ニ短調)の
キャラクタリスティックな出だし。

『のだめ』の挿入曲としても
使われていた二楽章のスケルツォは
その滑稽で歪んだような旋律が
ワルツのリズムに乗っかって流れる。

終楽章は、有名な
「勝利のフィナーレ」であり、
この交響曲が持つ政治的な文脈を
最も強く感じさせる。

キャッチーなフレーズは
ドラマの効果音的なBGMとしても
採用されることがあるが、
特に印象的なのては
終曲の辺りでドミナント(属和音)の
A(ラ)が延々と弦で奏される上に
管が朗々と旋律を奏でる処である。

ここの解釈には諸説あって面白いが、
いずれにせよ、シンフォニーの歴史上
珍しい作風であり、思想性が宿っている。

+++

コンサートがはねたのが
7時半頃だったので、
遅めのボッチ夕食を
駅前の飲み屋で
拉麺&餃子にした。

餃子と叉焼麺を
看板にしている店だが、
どっちも大衆食堂並みの
極々ありふれた味だった。

それでも、
ヤローとジジイばっかの
酔客たちがオダをあげたり、
クダをまいたりする様子を
観察するでもなく
あるあるだなぁ…と、
味わっていた。


店を出たら、
街なかの電波塔のイルミが
青々と輝いており、
それは田舎の飲み屋街に聳え立つ
似非スカイツリーとも
見まがうものだった。

++++

オバーブが送ったと思われる
おニューを着て、街出した時の
リク坊のお茶目な
マネキンの中への擬態に
(…らしいなぁ…)
と、ニンマリしてしまった。

この夏も
帰省してくれたら
嬉しいのだが…。

東京生まれの彼も、
もう、すっかり浪速っ子になり
ネイティヴ大阪弁に
染まっているだろう。

ジイジも11年も
関西在住やったから、
互いに第二外国語で
カンバセーション出来るのが
楽しみでもある。